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第272話 白き妖の顕現

轟音と共に、紗世の頭上へ岩塊と岩片が降り注ぐ。


「紗吉ぃぃっ!!」


黒鷲や製麺所の男達が、岩壁の崩落に気付いて叫ぶ。


「くそっ……どけええぇっ!!」


惟成は眼前に迫っていた男を力任せに薙ぎ払い、紗世の元へ向かおうとする。しかし、崩れ落ちる岩の速度はあまりにも速かった。


紗世は頭上を見上げたまま、恐怖で身体を動かせずにいた。


(駄目……足が……動かな…!)


巨大な岩が迫る。


その瞬間。


「紗世ーーーっ!!」


惟成の叫びが海辺に響いた。


だが、その声よりも早く、一陣の白い風が惟成の横を駆け抜けた。


(……逃げられないっ……死ん……)


紗世は反射的に目を閉じ、身体を小さく丸める。


死を覚悟した、その瞬間だった。


――バクンッ!!


次の瞬間、紗世の身体は何かに横から攫われた。


何が起こったのか理解する暇もない。


ガラガラガラガガガッ……!!


ドオオオオオオン!!


轟音を響かせながら岩塊と岩片が地面へ叩きつけられ、砂煙が辺り一面を覆った。


やがて煙が薄れていく。


その中に立っていたのは、一匹の巨大な白い獣だった。


その口元には、身を屈めたままの紗世がいた。


獣の瞳は左右で色が違っていた。


片方は澄んだ水色。


もう片方は黄金色。


その瞳を見た瞬間、惟成の表情が変わった。


「……虎徹か……?」


惟成の声に、紗世がゆっくりと顔を上げる。


そして、自分を咥えている白い獣の顔を見た。


「……え……虎徹……?」


そこにいたのは、いつもの白猫ではない。


狐にも狼にも似た、大きな白い妖。


しかし、その瞳だけは紛れもなく、いつも側にいた虎徹のものだった。


「その目……本当に虎徹なの……?」


紗世が呟く。


すると、その声に反応するように白い獣の耳が僅かに動いた。


「ひ……ひぃ……!」


物部の側にいた男が腰を抜かす。


「妖だ……妖が出たぁ!!」


その叫びを皮切りに、周囲の男達が恐怖に駆られて後退る。


白い妖は、ゆっくりと紗世を降ろし、顔を上げた。


視線の先には、岩壁を崩し、紗世を殺そうとした男がいた。


男は青ざめた顔で後ずさる。


白い獣は、一瞬で岩壁の上へ飛び上がった。


〈我が主を殺そうとしたのは、お前か。〉


「ひっ……!」


男の喉が鳴る。


〈許さぬ。我が主を害そうとした罪、その身で償え。〉


妖が口を開いた、その時だった。


「虎徹ーー!!」


崖下から惟成の声が響く。


「殺すな! 生け捕りにしろ!!」


白い妖の動きが止まる。


〈……何を言う。我が主を殺そうとした者だぞ。〉


怒りに満ちた瞳が光る。


「虎徹!」


今度は紗世の声だった。


「惟成の言う通りにして。こっちに戻っておいでーー!!」


〈……っ〉


虎徹はしばらく黙り込んだ。


やがて、大きく息を吐くように鼻を鳴らす。


〈……仕方あるまい。〉


白い獣は男の衣を咥えると、岩壁から飛び降りた。


そして崖下へ降りると、男を地面へ放り投げる。


「ぐっ……!」


惟成はすぐさま男を押さえ、縄をかけた。


それを見た黒鷲が我に返る。


「おい! 何を呆けている! 他の奴らも縛り上げろ!!」


「へ、へいっ!」


妖の姿に固まっていた製麺所の男達も、ようやく動き出した。


戦いが終わった後。


紗世はゆっくりと白い獣へ近付いた。


「……虎徹……なの?」


白い獣は、少し気まずそうに視線を逸らす。


〈……うむ。〉


「虎徹……!」


紗世はその身体へ抱きついた。


「助けてくれてありがとう……! 虎徹が来てくれなかったら、私……」


言葉に詰まりながら、白い毛並みに顔を埋める。


「本当にありがとう。」


虎徹は何も言わず、ただ静かに目を細めた。


その様子を見ていた惟成が歩み寄る。


「白猫は姿を借りていたと言っていたが……これが本来の姿なのか?」


〈そうだ。〉


惟成は白い獣を見上げる。


「犬……ではないな。狼とも違う。」


〈我は野干やかんだ。〉


「野干……大陸の妖か。」


〈まあ、元はな。〉


その横で、紗世は相変わらず虎徹の毛並みに顔を埋めていた。


「見て見てぇ〜〜惟成。虎徹、すごくふわふわぁ……。白猫の姿も可愛いけど、この姿は格好いいねぇ。」


惟成はそんな紗世と虎徹を見て、静かに息を吐いた。


先ほどまで命を懸けた戦いの場にいたとは思えないほど、穏やかな時間だった。




「旦那!」


不意に源八が声を張り上げた。


「潮が来る! このままだと戻る道や岩場が沈む!」


その声に黒鷲が海へ目を向ける。先ほどまでよりも明らかに水位を増していた。


「……大潮だったな。」


黒鷲は舌打ちすると、捕らえた物部らを縛る縄をぐいと引き寄せた。


「おい! 立て! 走れ! 沈みたくなけりゃ足を動かせ!」


縄に引かれた物部達はよろめきながら立ち上がる。


「ひ……っ。」


もはや誰一人として抵抗する者はいなかった。


虎徹という妖の存在を目の当たりにし、戦意などとうに失われていたのである。


「若造! 急ぐぞ!」


「ああ。」


惟成は短く頷き、紗世へ目を向けた。


「紗吉、行くぞ。」


「はい!」


虎徹は再び白猫の姿へ戻ると、何事もなかったかのように惟成が引く、乗ってきた馬の背へ軽く飛び乗った。


一行は岩場を駆け出す。


潮は見る間に満ち始め、足元には海水が流れ込み、膝下まで水が達していた。


誰もが水飛沫を上げながら必死に足を運ぶ。


その時だった。


沖から一際大きな波が盛り上がる。


惟成は即座にそれを見抜き、声を張った。


「全員、踏ん張れ! 波に足をさらわれるな!」


次の瞬間、


ザパァァァン――。


巨大な波が岩場へ叩きつけられた。


白い飛沫が空へ舞い上がり、全員の身体を一瞬で飲み込む。


冷たい海水をまともに浴びながらも、誰一人倒れることなく踏みとどまった。


「急げ! あと少しだ!」


黒鷲の怒鳴り声が飛ぶ。


全員が最後の力を振り絞り、安全な陸地へ駆け上がった頃には、先ほどまで通っていた岩場へ続く道は、ほとんど海の下へ沈み始めていた。


息を整える間もなく、遠くから馬蹄の音が近づいてくる。


駆けて来た馬が砂煙を上げて止まり、馬上の男が勢いよく飛び降りた。


「源様!」


大伴だった。


「讃岐守様と連絡が取れません! 急ぎ本営へ――」


そこまで言って言葉が止まる。


目の前の光景が、あまりにも予想とかけ離れていたからである。


濡れ鼠となった惟成。


同じく全身ずぶ濡れの紗吉。


縄で繋がれた十数名の男達。


そして、その先頭には――


「……物部殿!?」


大伴は目を見開いた。


さらに縛られた男達の顔を見回し、その多くが讃岐守邸の者であることに気付く。


「み、源様……これは、一体……。」


惟成は乱れた呼吸一つ見せず、静かに答えた。


「物部実資以下、讃岐守配下十四名を捕縛した。」


その声は冷静だった。


「嫌疑は、海賊斡旋、海賊船供与、並びに海賊逃亡幇助。直ちに本営へ連行せよ。」


「は……はあああああっ!?」


大伴は思わず素っ頓狂な声を上げた。


頭の整理が追いつかない。


しかし惟成が冗談を口にする人間ではないことも知っている。


混乱したまま頷き、改めて周囲へ目を向けた。


その視線が、ふと紗吉で止まる。


「おお、紗吉! 無事で――」


言葉が途中で途切れた。


ずぶ濡れになった水干は身体へ張り付き、隠されていた輪郭を容赦なく浮かび上がらせていた。


胸は晒で押さえられている。


それでも、細く括れた腰、丸みを帯びた臀部、しなやかな脚の線は隠しようがない。


男の身体ではなかった。


大伴だけではない。


黒鷲も、製麺所の男達も、縄で繋がれた物部達でさえ、思わず紗吉へ目を向けていた。


誰も口を開かない。


ただ、目の前の違和感を理解し始めていた。


その視線に気付いた紗世は、はっとして両腕で胸元を抱き寄せ、身を縮めた。


「……あ。」


羞恥に頬が熱くなる。


その瞬間だった。


――バァンッ!!


乾いた衝撃音が辺りへ響いた。


惟成が手にした太刀の鞘が、傍らの松の幹を強く打ったのである。


その音だけで、その場の空気は凍りついた。


惟成は誰一人見ようとせず、静かに口を開く。


「……見るな。」


低い一言だった。


怒声ではない。


だが、その声には逆らうことを許さぬ威圧があった。


((((( お………おっかねぇ〜〜〜〜………。)))))


男達は反射的に視線を逸らす。


誰一人として、もう紗世を見る者はいなかった。

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