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第270話 海辺に立つ者たち

物部の手から放たれた火は、油を吸った板壁へ落ちた。


ボウッ――。


一瞬で炎が立ち上がる。


乾いた木は待ち構えていたかのように燃え広がり、納屋の壁を這うように火が走った。


パチパチ、と木の爆ぜる音が辺りへ響く。


熱気が一気に納屋の中へ流れ込み、空気が息苦しくなる。


「こ、惟成……。」


紗世は思わず惟成の袖を掴んだ。


惟成は燃え始めた板戸を静かに見つめる。


炎はまだ表面を舐め始めたばかり。


板戸そのものは十分な強度を保っている。


「紗世。」


「うん?」


「少し下がれ。」


「え?」


「いいから。」


紗世は言われるまま二、三歩後ろへ下がった。


惟成は板戸の前へ歩み寄る。


肩を軽く回し、右足を半歩引いた。


それを見た紗世は首を傾げる。


(え……。何する気?

いやいや……。まさか……。)


惟成は小さく息を吸った。


そして――


バゴォォォォンッ!!


轟音と共に、惟成の回し蹴りが板戸へ炸裂した。


炎をまとい始めていた板戸は、閂ごと見事に吹き飛び、数間先まで転がっていく。


火の粉が宙へ舞った。


「…………。」


「…………。」


「…………。」


辺りが静まり返る。


物部も。


男達も。


そして紗世までもが、目を丸くしたまま固まっていた。


(え……。)


(((えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!??)))


(なんだ今のは!?)


物部は唖然とした。


(普通ここって炎に囲まれて絶体絶命になる場面じゃないの!?蹴った!?蹴り一発!?しかも閂ごと!?え!?人間!?この人、本当に人間なの!?)


紗世は引き気味に惟成の背中を見た。


惟成は吹き飛んだ板戸を一瞥すると、何事もなかったように振り返る。


「紗吉。」


「……は、はい。」


「出るぞ。」


(軽っ!!いやいやいや!!

もっと『急げ!』とか『間に合った!』とかあるでしょ!?

何その『散歩でも行くぞ』みたいな言い方!!

………自分の恋人だけど………怖ァ……。)


紗世は半ば引きつった表情のまま、慌てて惟成の後へ続いた。


二人が納屋の外へ出ると、背後では炎が勢いよく燃え盛り、黒煙が空へ立ち上っていく。


惟成はゆっくりと物部へ向き直った。


「……物部殿。」


その静かな一言だけで、物部の肩がびくりと震えた。


「何を、なさっているのですか。」


怒鳴りもしない。


責め立てもしない。


ただ静かに問い掛けるだけ。


その冷え切った声が、物部の背筋を這い上がった。



物部はごくりと唾を飲み込んだ。


惟成は怒鳴りもしない。


刀を向けるわけでもない。


ただ静かに、自分を見つめている。


その静けさが、何より恐ろしかった。


だが、ここで怯んでは終わりだ。


物部は震えそうになる声を押さえ込み、大きく叫んだ。


「何をしておる! 相手はたった一人だ! 源も紗吉も殺せ!」


男達は我に返り、一斉に太刀を抜いた。


「かかれぇ!!」


怒号と共に惟成へ斬りかかる。


惟成は振り返ることなく紗世へ言った。


「紗吉。」


「は、はい!」


「そこの岩壁を背にして立っていろ。」


「岩壁?」


「囲まれれば守りきれん。」


「……はい!」


紗世は慌てて岩壁まで駆けた。


背後を岩に預け、惟成を見る。


(お願い……無茶しないで。)


惟成は静かに太刀を抜いた。


鞘走る音だけが、不思議なほど澄んで聞こえる。


最初の男が斬りかかった。


惟成は半歩だけ身体をずらし、相手の手首を払う。


太刀が宙を舞った。


返す刃で峰打ち。


男はその場へ崩れ落ちる。


間髪入れず二人目。


惟成は踏み込み、柄で鳩尾を突いた。


息を詰まらせた男が膝をつく。


三人目。


斬撃を紙一重でかわし、足を払う。


四人目。


腹へ鋭い蹴りを叩き込み、数歩後方まで吹き飛ばした。


誰一人として、惟成へ刃を届かせることができない。


「ば……化け物か……。」


誰かが思わず呟いた。


その時だった。


ヒュン――。


風を裂く音。


惟成の瞳がわずかに細められる。


身体を捻る。


一本の矢が惟成の肩先をかすめ、そのまま地面へ深々と突き刺さった。


惟成はゆっくりと視線を上げる。


岩場の向こうから、新たな男達が姿を現した。


弓を構える者。


太刀を抜く者。


十人ほどはいる。


物部の口元に笑みが戻った。


「はは……。」


(讃岐守様の指示か。)


「援軍だ。」


乱れた息を整えながら惟成を見つめる。


「いくらお前でも、この人数を相手に出来まい。」


惟成は答えない。


静かに敵の数を見渡す。


前方には十数人を超える敵。


背後には紗世。


紗世もその数を見て息を呑んだ。


(こんな人数……。惟成でも……。)


物部の笑みが戻った。


「どうした、源惟成。」


倒れ伏した男達の向こうから、新たに現れた十数人がゆっくりと包囲を狭めていく。


弓を持つ者が三人。


残る者は皆、太刀を抜いていた。


「いくら武の誉れ高き源氏といえど、この人数を一人で相手に出来ようか。」


惟成は答えない。


静かに敵の位置だけを見渡した。


(前が十……。弓が三。物部を入れて十四。)


視線だけで距離を測る。


紗世は岩壁を背にしながら、その横顔を見つめていた。


(惟成……。)


今まで一度も焦る姿を見たことがない。


だが今回は違う。


相手は多い。


しかも弓までいる。


(私がいるから……。)


その考えが頭をよぎる。


(私がいなければ、惟成はもっと自由に戦えるのに……。)


思わず唇を噛んだ。


その時だった。


惟成が小さく口を開く。


「紗吉。」


「え?」


「絶対に動くなよ。」


「……はい。」


「何があっても。」


「はい。」


短いやり取りだった。


だが、その声には僅かな緊張が滲んでいた。


物部がゆっくりと手を上げる。


「やれ。」


男達が一斉に踏み込もうとした、その瞬間――


「紗吉と、その主を守れぇぇぇぇぇっ!!」


岩場の向こうから怒号が響いた。


全員が思わず振り向く。


砂煙を巻き上げながら駆けて来たのは、粗末な麻衣をまとった男達だった。


その手には太刀ではなく、


鍬。


鋤。


鎌。


銛。


そして投網。


農具や漁具を手にした村人達である。


「あっ……!」


紗世が思わず声を上げた。


「あの人達……!」


惟成も目を細める。


(製麺所の者達か……。)


男達のさらに後方。


一際大きな体格の男が、鎌を肩に担ぎながら大股で駆けて来る。


「紗吉ぃぃぃぃ!!若造ぉぉぉっ!!」


豪快な声が海辺へ響く。


「無事かあぁ!!?」


黒鷲だった。


港で大伴と港の責任者の会話を聞いていたのは黒鷲の所の漁師。その話を聞いた黒鷲が製麺所の者たちを引き連れてきた。


その姿を見た物部の周囲の男達が吹き出した。


「ははは!」


「何だあれは。」


「鍬に鋤だと?」


「見ろ、投網まで持って来ているぞ。」


「そんな物で戦う気か!」


男達の笑い声が広がる。


惟成は静かに太刀を構えたまま、小さく口元を緩めた。


「愚か者。」


その一言だけで男達の笑いが止まる。


「農具も漁具も刃物だ。」


静かな声が海風へ溶ける。


「使い方次第では、太刀よりも恐ろしい。」


その言葉を聞いた瞬間、惟成の脳裏へ数日前の出来事が蘇った。


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