第269話 白蛇と紅蓮
───海辺の納屋
納屋の中は薄暗く、潮の匂いが鼻をついた。
壁際には漁で使う網や樽が積み重ねられているものの、逃げるために役立ちそうな物は何一つ見当たらない。
紗世は猿轡を噛まされ、両手足を縄で縛られたまま柱にもたれていた。
(何で私なんだろう……。)
惟成ではなく、自分が攫われた理由が分からない。
海賊船押収を止めたいのなら、惟成本人を狙った方が早いはずだ。
それでも、こうして自分だけが閉じ込められている。
(でも……。)
紗世はゆっくり身体を起こした。
待っているだけでは何も変わらない。
そう思ったからだった。
納屋には窓も明り取りもなく、外へ出られる場所は板戸だけである。
紗世は深く息を吸い込み、その板戸へ向かって身体ごとぶつかった。
ドンッ!
鈍い音だけが響く。
戸はびくともしない。
それでも諦めなかった。
(開かなくてもいい……。音だけでも、誰かが気付いてくれれば。)
もう一度。
ドンッ!
さらにもう一度。
何度も、何度も板戸へ身体をぶつけ続けた。
猿轡越しに荒い息が漏れる。
(はぁ……はぁ……。)
何度目かの体当たりをした、その時だった。
梁の上で何かが動く気配がしたかと思うと、
───ボトッ。
白い縄のようなものが、紗世の目の前へ落ちてきた。
(え……。)
思わず目を見開く。
その白いものは、ゆっくりと身をくねらせた。
(え……何が落ち……。)
思考が止まる。
次の瞬間、
(って、蛇ぃぃぃーーーっ!!)
紗世は縛られた身体のまま飛び退こうとしたが、足を縛られているため尻餅をつくように後ずさるしかなかった。
(やだやだやだ! 蛇! 蛇! 蛇ぃぃぃ!!私、爬虫類も両生類も苦手なんだってばぁ!!)
涙目になりながら白蛇を見つめる。
だが、白蛇は襲ってくる様子もなく、その場でじっと身体を丸めていた。
細い舌を一度だけチロリと出し、ゆっくりと身体を動かす。
(……あれ?)
恐る恐る様子を窺う。
(あんまり動かない……。)
よく見ると、白い胴の一部が赤く染まっていた。
(怪我……。)
梁から落ちた拍子に、板へ身体を擦ったのだろうか。
白い鱗の間から、僅かに血が滲んでいる。
(痛そう……。)
怖い。
近付きたくない。
それでも、放っておくことは出来なかった。
(白蛇って……縁起が良いって聞いたことあるし……。毒……無いよね……。)
自分に言い聞かせるように心の中で呟く。
両手は縄で後ろ手に縛られている。
何も出来ない。
紗世はしばらく考えると、ゆっくりと身体を横へ倒した。
そして足先を器用に動かし、足の指で指貫の端を挟む。
何度か失敗しながらも、ようやく指貫を持ち上げることが出来た。
(お願い……噛まないでね……。)
恐る恐る足を伸ばし、指貫で白蛇の傷口へそっと触れる。
滲んでいた血が、少しだけ布へ移った。
白蛇は逃げない。
暴れもしない。
ただ静かに紗世を見つめている。
(……大丈夫そう。)
紗世はほっと胸を撫で下ろした。
もう一度、ゆっくりと血を拭う。
ちゃんと手当ては出来ない。
それでも、せめて血だけでも。
そんな思いだった。
白蛇は静かに頭を持ち上げると、紗世の足元まで近寄ってきた。
そして、足袋の先へ小さく鼻先を寄せる。
チロリ。
細い舌が一度だけ出た。
(……お礼、言ってくれたのかな。)
そう思った瞬間、不思議と恐怖は消えていた。
白蛇は静かに身体を翻すと、するすると柱を登り、梁の上へ戻っていく。
やがて闇へ溶けるように姿を消した。
紗世はその姿を見送ると、小さく息を吐く。
(……さて。待ってるだけじゃダメ。)
もう一度身体を起こし、板戸へ向かって勢いよく体当たりした。
───ドンッ。
鈍い音が、静かな納屋の中へ響いた。
その音は、潮騒の中へ少しずつ吸い込まれていった。
───讃岐の港
「大伴様。沖合に目的の分からぬ船が二隻見えました。」
港の責任者が慌ただしく駆け寄り、大伴景綱へ報告した。
大伴は海を一瞥すると、小さく頷く。
「三宅が部下を連れて調べに向かっている。船は逃がすな。」
「はっ。」
責任者は再び走り去ろうとしたが、止まった。
「……ところで、源様は?」
大伴は港の先、海岸へと続く道へ目を向けた。
「拐われた紗吉の目撃情報が入った。俺達は港を押さえ、源様だけ先に情報のあった海辺へ向かわれた。」
そのやり取りを、荷揚げの手伝いをしていた一人の漁師が耳にした。
漁師は顔色を変えると、荷車をその場へ置き、誰にも気付かれぬよう港を離れて走り出した。
───海辺・納屋付近
惟成は馬を駆けていた。
潮風が狩衣の袖を大きくはためかせる。
海辺へ近づくにつれ、人影が見えてきた。
数人の男達。
その先頭には見覚えのある顔があった。
(……物部?)
惟成は手綱を引き、馬を止めた。
「物部殿。」
突然呼び止められた物部は、肩を震わせながら振り返る。
「み……源様。」
「この辺りで紗吉を見たという話を聞いてな。」
努めて平静を装いながら、物部は笑みを作った。
「そのような話がございましたか。でしたら、この辺りは私が探しましょう。源様は本営へ戻られ、封鎖の指揮を――」
言い終わる前だった。
ドンッ……。
鈍い音が風に乗って聞こえた。
惟成も物部も、同時に音のした方を見る。
再び。
ドンッ!
今度ははっきりと聞こえた。
物部の顔色が変わる。
(まずい……。)
「源様!」
物部は慌てて一歩前へ出た。
「あちらの納屋は私が見て参ります。どうか本営へ――」
しかし惟成は、その言葉を最後まで聞かなかった。
馬から飛び降りると、そのまま一直線に納屋へ向かう。
物部が制止する暇もない。
納屋へ辿り着いた惟成は、閂を外し、勢いよく板戸を開け放った。
薄暗い納屋の中。
身体を丸め、板戸へ体当たりしようとしていた紗世が、驚いたように顔を上げる。
「紗吉!」
惟成は駆け寄り、猿轡を外した。
「大丈夫か。」
「惟成様……!」
ようやく声が出せた紗世は、大きく息を吸い込む。
「物部様です!」
「何?」
惟成が振り返った、その瞬間だった。
バタンッ!!
勢いよく板戸が閉められる。
外から重い音が響いた。
ガコンッ!
閂が掛けられた音だった。
「閉じ込めろ!!」
物部の怒声が飛ぶ。
同時に男達が桶を抱え、納屋の周囲へ油を撒き始めた。
鼻をつく臭いが隙間から流れ込んでくる。
紗世の顔が強張った。
「惟成……。」
惟成は静かに板戸へ近づき、外の気配を探る。
男達が慌ただしく走り回る足音。
そして、乾いた石が擦れる音。
火打石だった。
「火を!」
物部の声が聞こえる。
次の瞬間、外がぼうっと赤く染まった。
松明に火が灯ったのである。
「……源様。」
物部の低い声が板戸越しに響いた。
「あなたは、ここで終わりです。」
惟成は何も答えなかった。
ただ静かに、紗世を自分の背へ庇うように立たせる。
外では油が納屋の壁を伝い、じわりと染み広がっていく。
物部は燃え上がる松明を見つめ、小さく息を吐いた。
「死人は口を利かぬ。」
そう呟くと、ためらうことなく燃え盛る松明を納屋へ向かって投げ放った。




