第268話 逆鱗
───本営
惟成が本営へ足を踏み入れると、ちょうど三宅宗平と大伴景綱が帳面を広げ、翌日の海賊船押収について打ち合わせをしていた。
「あれ、源様。どうされました?」
三宅が顔を上げる。
惟成は二人を真っ直ぐ見据えた。
「三宅。」
「はっ。」
「今すぐ讃岐中の関所を閉じろ。」
「……は?」
突然の命令に三宅が目を見開く。
「追捕使の権限で命ずる。街道を通る者は一人残らず調べろ。讃岐から一歩たりとも出すな。」
「……は、はい!」
続けて惟成は大伴へ視線を向けた。
「大伴。」
「お、おう。」
「港を全て封鎖しろ。」
「港までですか!?」
「そうだ。大小を問わず、船の出入りを一切止めろ。これも追捕使の権限で行う。」
「承知した!」
二人はただ事ではないと悟り、慌ただしく動き出そうとした。
その時だった。
「源様。何事ですか?」
奥から和気経房が姿を現した。
惟成は懐から一通の文を取り出し、経房へ差し出す。
経房は目を通すと、表情を曇らせた。
「紗吉が……。」
「誘拐されました。」
惟成は淡々と言った。
「文には『紗吉を返して欲しくば、海賊船の押収を取りやめよ』とあります。」
その場の空気が一変する。
「海賊の仕業……でしょうか。」
経房が低く問う。
惟成は静かに首を振った。
「違います。」
全員が惟成を見る。
「海賊船押収の件は、本営の者しか知りません。」
「……。」
「海賊が知るはずのない情報です。」
経房も頷く。
「つまり……。」
「本営の内情を知る者、あるいは知る立場の者が動いたということです。」
三宅と大伴は顔を見合わせた。
惟成は二人へ向き直る。
「関所と港を封鎖する理由はそこにある。誘拐犯を讃岐から出すな。」
「「はっ!」」
二人は一礼すると駆け足で本営を飛び出して行った。
静けさが戻る。
経房が惟成へ歩み寄る。
「……讃岐守様でしょうか。」
「まず間違いありません。」
惟成の声は静かだった。
「海賊と連絡が取れず、焦った末に打った一手でしょう。」
経房は小さく息を吐く。
「悪手でしたな。」
「ええ。」
惟成は静かに頷いた。
「この誘拐が明るみに出れば、海賊船押収どころでは済みません。追捕使として誘拐事件も同時に捜査します。」
「そうなれば……。」
「誘拐犯を辿れば、讃岐守へ辿り着く可能性があります。」
惟成は僅かに目を細めた。
「焦って動けば動くほど、自ら証拠を残すことになるでしょう。」
「自滅してくだされば話は早いですな。」
「その時は、海賊だけでなく、これまでの横領も含め、一つずつ罪を明らかにしていきます。」
経房は深く頷いた。
「承知しました。予定は多少狂うかもしれませんが、そのつもりで動きましょう。」
「お願いします。」
惟成は短く一礼すると、踵を返した。
その背中を見送りながら、経房はぽつりと呟く。
「……源様が本気で怒られると、こうなるのですな。」
怒鳴りもせず、声を荒らげることもない。
それでも、周囲の空気は張り詰め、誰も逆らえる者はいなかった。
経房は静かに空を仰ぐ。
「讃岐守様。」
小さく息を吐く。
「源様の腹心にまで手を出されましたか。これは……悪手でしたな。」
その声には、わずかな同情すら滲んでいた。
───数刻前・讃岐守邸
「讃岐の関所と港を封鎖だと!?」
讃岐守邸の一室に、物部の驚愕した声が響いた。
報告に訪れた武官は膝をついたまま頭を下げ、静かに言葉を続ける。
「はい。追捕使様は、専属使用人の紗吉が拐かされたとして、追捕使の権限により讃岐中の関所と港を封鎖し、犯人を一歩たりとも讃岐から出すなと命じられました。」
その言葉を聞き終えた瞬間、物部の顔から血の気が引いた。
(……何を考えている。)
胸の内で思わず毒づく。
たかが使用人一人のために、関所も港も閉鎖するなど聞いたことがない。貴族にとって腹心の使用人は大切な存在ではあるが、せいぜい家人を使って探させる程度だろうと高を括っていた。
海賊船押収の件も、源惟成が本営へ戻り、和気経房らと紗吉の行方と共に今後の相談を始めれば、その間に時間を稼げる。そう踏んでいたのである。
それが、まさか追捕使の権限を使って国中を動かすとは。
完全に予想の外だった。
(まずい……。)
額を一筋の汗が流れ落ちる。
(私は紗吉に顔を見られている。もともと、見つけられる前に殺すつもりではいたが……もし、すぐに見つかり、あれが源の前で私の名を口にすれば……。)
自分だけでは済まない。
讃岐守までもが海賊と繋がっていることを疑われる。
「物部様。」
武官がおそるおそる声を掛けた。
「本営へ戻られますか。」
物部は首を横へ振る。
「いや、先に讃岐守様へお知らせする。本営へ戻るのは、それからだ。」
「承知いたしました。」
武官が立ち去るのを待つこともなく、物部は屋敷の奥へ駆け出した。
ちょうど廊下を曲がったところで、讃岐守と鉢合わせる。
「物部!!」
怒声が飛んだ。
「何をした! 源が関所も港も封鎖したではないか!」
「も……申し訳ございません!」
物部はその場へ崩れ落ちるように平伏し、額を畳へ擦りつけた。
そして、源惟成の邸へ赴き、紗吉を連れ出した経緯を包み隠さず話した。
話を聞き終えた讃岐守は、しばらく黙ったまま立ち尽くしていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……なんという早まった真似を。」
その一言には怒りよりも諦めが滲んでいた。
周囲を見回し、誰もいないことを確かめると、物部を手招きする。
物部が膝をついたまま近寄ると、讃岐守は耳元で低く囁いた。
「もう後戻りはできぬ。」
物部は顔を上げた。
「源惟成を生かしておけば、いずれ我らまで辿り着く。」
その目には、追い詰められた者だけが持つ険しさが宿っていた。
「紗吉も同じだ。あれはお前の顔を知っている。」
物部は唇を噛む。
「ならば……。死人は口を利かぬ。」
静かな一言だった。
しかし、その言葉の意味を理解できぬほど物部も愚かではない。
「源も、紗吉も、生かして帰すな。」
物部は深く頭を下げた。
「はっ。」
踵を返すと、そのまま海辺へ向かって駆け出していった。




