第267話 水面下の焦燥
───讃岐守邸
妻戸が勢いよく閉められた。
「どういうことだ!」
讃岐守の怒声が部屋に響く。
部屋には一人の男が膝をついていた。
都と讃岐を行き来し、中納言との文や口頭の命を運ぶ連絡役だった。
「申し訳ございません……。」
「黒鷲とはまだ連絡がつかぬのか!」
「はっ。海賊達の潜伏先へ向かいましたが、誰もおりませんでした。」
「誰もおらぬだと?」
「村はもぬけの殻でした。」
讃岐守は奥歯を噛み締める。
「海賊船は。」
「そのままです。」
「海賊船にはいなかったか!?海賊船に出入りは!?」
「それが……。」
連絡役は言葉を詰まらせた。
「三度参りました。四度目も参りました。しかし、誰一人現れませぬ。」
「黒鷲は?」
「姿を見ておりません。」
讃岐守は机を叩いた。
「馬鹿者!」
乾いた音が部屋に響く。
「十日だぞ!あと十日もすれば、あの若造は海賊船を押収する!」
連絡役も顔を青くした。
「源惟成め……。」
讃岐守は低く呟く。
「海賊を討つのではなく、船から潰しに来るとは……。」
完全に想定外だった。
海賊船さえ残っていれば、黒鷲を脅し、いつでも海賊を動かせる。
だが船を失えば終わる。
十年かけて築き上げた仕組みが、一度に崩壊する。
「都へ文は出したか。」
「昨夜、早馬を。」
「返事はどれくらいかかりそうだ?」
「まだ……。最低でも十日はかかるかと。」
讃岐守は舌打ちした。
「遅い。中納言様のお返事を待っていては間に合わぬ。」
連絡役は恐る恐る顔を上げる。
「では……。」
「何としてでも黒鷲を探せ。命令を伝えろ
海賊船を海へ出せ。今すぐだ。」
「はっ!」
連絡役は深く頭を下げ、部屋を飛び出していく。
戸が閉まると、部屋には讃岐守一人だけが残った。
「……源惟成。」
その名を低く呟く。
「たかが二十にも満たぬ若造が……。」
拳を握る。
しかし、その額には薄く汗が滲んでいた。
源惟成は、自分が思っていた以上に深く、この件へ踏み込んできている。
もし海賊船を押収されれば──。
今度は自分ではなく、都の中納言が動く。
その時、切り捨てられるのは誰なのか。
讃岐守は、その答えを知っていた。
だからこそ、焦っていた。
───翌朝
「頭領ーー!!」
見張り台の男が丘の上から駆け下りてきた。
「また来たぞ!」
黒鷲は縁側で干物をかじっていた。
「何がだ。」
「讃岐守の使いだ!」
「……もう来たか。」
黒鷲は干物を口に放り込み、ゆっくり立ち上がる。
「今日はどこだ?」
「南の浜です!」
「そうか。」
黒鷲は頷く。
「じゃあ、儂は山へ行く。」
「昨日は西の入江、一昨日は港……。毎日違う所から来やがる!」
源八は呆れたように言った。
黒鷲は肩を竦めた。
「向こうも仕事だからな。儂も今は逃げるのが仕事だ。」
村人達が吹き出した。
「頭領、楽しんでません?」
「少しな。」
「少しか!?」
笑いが起こる。
一方、その頃。
「黒鷲はどこだ!」
讃岐守の連絡役は馬を飛ばしていた。
「昨日は西へ逃げたと聞いた!」
「今日は南だ!」
浜へ着く。
漁師しかいない。
「黒鷲は!」
「さあ?」
「知らねえな。」
「朝から山へ行った奴ならいたぞ。」
「山か!」
連絡役は再び馬を走らせる。
山道。
「黒鷲は!」
薪を割る男が首を傾げる。
「黒?」
「黒い服の大男だ!」
「ああ。」
男は頷いた。
「さっき海へ行った。」
「海!?」
連絡役は歯を食いしばる。
海辺。
「黒鷲は!」
「山へ。」
「……。」
「本当か?」
「たぶんな。」
「お前ら!揃いも揃って!」
海賊達は真顔だった。
誰一人笑わない。
しかし連絡役が馬を走らせて去った瞬間。
「ぶはっ!」
「あはははは!」
村中に笑い声が響いた。
「頭領!」
山の見張りが走ってくる。
「今、海へ行きました!」
「ご苦労。じゃあ儂は畑だ。」
「またですか!」
「今日は大根を抜く。」
「頭領、海賊辞める前に農民になってますよ。」
「違う。」
黒鷲は真顔で言う。
「職人になる練習だ。」
「違いが分かりません!」
また笑いが起きた。
夕方。
連絡役は疲れ果てて村外れに座り込んでいた。
髪は乱れ、馬もぐったりしている。
「どこへ……消えたんだ……。」
すると近くを通った子どもが言った。
「黒のおじちゃん?」
「知ってるのか!」
「うん。」
「どこだ!」
子どもは満面の笑みで指を差した。
「さっきまで、あっち。」
「どっちだ!」
「えっと……。」
「忘れた!」
子どもは走り去る。
連絡役は天を仰いだ。
「……頼むから、一度でいいから会わせてくれ。」
その頃。
少し離れた丘の上。
黒鷲は腕を組み、村を眺めていた。
「儂も十年逃げてきた。」
口元がゆっくり緩む。
「今さら一人の役人に捕まるほど、甘くはない。」
その横で源八が笑う。
「頭領。」
「なんだ。」
「追捕使の若造と組んでからの方が、生き生きしてません?」
黒鷲は一瞬だけ黙る。
「……気のせいだ。」
そう言いながらも、その顔にはどこか晴れやかな笑みが浮かんでいた。
───数日後・讃岐守邸
「まだ黒鷲が見つからないだと!?」
讃岐守の怒声が屋敷に響いた。
「は、はい……。まるでこちらを避けているかのようで……。」
「避けているだと!?まずいぞ……。」
讃岐守は苛立ち紛れに爪を噛む。
「意図的に避けているとすれば……まさか、本当に海賊を辞める気ではあるまいな……。」
部屋の中を落ち着きなく歩き回りながら、低く唸る。
「とにかく、まずは海賊船の押収をどうにかせねば。せめて中納言様からの返事が届くまで数日……いや、一日でも時間を稼がねばならん。」
その時、不意に足を止めた。
「そうだ。」
振り返り、側に控えていた連絡役の男を見る。
「お主、源惟成の邸へ行け。」
「は?」
「何でもいい。源の弱みになりそうなものを探してこい。中納言様の返事が届くまで時間を稼げればよい。」
「しかし……何を探せば……。」
「そんなもの、自分で考えろ!」
讃岐守は怒鳴った。
「何もなければ、何かでっち上げろ!源惟成の気が逸れさえすれば、それで良いのだ!」
「は……はっ!」
男は頭を下げると、逃げるように屋敷を飛び出して行った。
───惟成の仮住まい
紗世は台盤所で夕餉の支度をしていた。
竈には火が入り、鍋からは湯気が立ち上る。
鼻歌を口ずさみながら野菜を刻んでいると、
ギィ……
門が開く音が聞こえた。
(惟成帰ってきた!?)
嬉しそうに手を拭き、門へ向かう。
そこに立っていたのは、見覚えのある男だった。
「あれ……。確か、本営で何度かお見かけしましたよね。讃岐守様に仕えている……。」
男は突然声を掛けられ、肩を震わせた。
「あ……物部だ。」
「物部様。何か御用ですか?」
紗世は首を傾げる。
物部は紗世を見つめた。
(……そうか。この邸には源と、わざわざ都から呼び寄せたこの紗吉しかおらぬ。ならば……。)
口元がわずかに歪む。
(こいつが姿を消せば、源は必ず動く。)
「実は源様から頼まれてな。」
「惟成様から?」
「本営へ来てほしいそうだ。和気様もお待ちだ。急ぎらしい。」
「えっ?」
紗世は少しだけ首を傾げた。
「惟成様は本営にいるんですか?」
「ああ。急ぎだからと私が迎えに来た。」
紗世は一瞬考え、
「分かりました。でも竈に火を入れたままなので、一度火を落としてきます。」
「構わん。」
「少しだけ待ってくださいね。」
紗世は急いで台盤所へ戻る。
火を落とし、鍋を下ろし、戸締まりを確かめる。
「お待たせしました。」
二人は邸を後にした。
……
しばらく歩き、海辺へ続く細い道へ入る。
「あれ?本営ってこっちでしたっけ?」
「近道だ。」
「そうなんですね。」
さらに進む。
岩場近くの古い納屋の前で物部が立ち止まった。
「源様はこちらだ。」
ガラッ
戸が開く。
紗世が中へ足を踏み入れた、その瞬間。
ガシッ!
後ろから腕を掴まれた。
「えっ──」
口を布で塞がれる。
「んんっ!!」
「悪く思うな。」
戸が閉まり、納屋の中は静寂に包まれた。
───半刻後
「紗吉。帰ったぞ。」
惟成が邸へ戻る。
返事はない。
「紗吉?」
台盤所へ向かう。
竈にはまだ温もりが残っていた。
鍋は火から下ろされ、切りかけの野菜がまな板の上に並んでいる。
「……つい先ほどまで、ここにいたな。」
争った形跡はない。自ら外へ出たのだ。
惟成は母屋へ向かう。
文机の上に一通の文が置かれていた。
『紗吉を返して欲しくば、海賊船の押収を取りやめよ』
惟成は静かに文を畳む。
「……なるほどな。」
低く冷え切った声だった。
「紗世がいるとすれば、讃岐守邸……いや、そこへ繋がる場所か。」
その時。
スタッ。
背後に気配が現れる。
振り返ると、虎徹が立っていた。
〈安心せい。紗世はまだ無事だ。怖がってはおるが、傷一つない。〉
惟成は短く頷く。
「そうか。」
〈居場所も分かった。〉
「どこだ。」
〈讃岐守の側近、物部という男が所有の納屋だ。海辺の岩場の近くにある。〉
「分かった。」
惟成は文を懐へしまう。
その横顔には怒りも焦りも見えない。
ただ、静かだった。
虎徹はその姿を見上げ、小さく息をつく。
(……キレてるな。死人が出なければよいが。)
虎徹は静かに惟成の後を追った。




