第266話 夫婦になる日まで
和気の姫君は惟成を真っ直ぐ見据え、静かに口を開いた。
「明日、この離れを出て行かれるとお聞きしました。本当に……出て行かれるのですか?」
「はい。ここは人の出入りが多く、和気様と私が水面下で動くには都合が悪いのです。」
「そう……ですよね。」
姫君は少し俯き、小さく息をついた。
「当家の使用人は連れて行かれないと聞きました。よろしければ、惟成様のお食事は私が……。」
「紗吉がおります。」
惟成は穏やかではあるが、きっぱりと言った。
「都でも、紗吉以上に料理の上手い者は見たことがありません。料理だけでなく、家事全般も得意です。向こうでは紗吉に任せます。」
「……そうですか。」
姫君の肩がわずかに落ちる。
その姿を見た紗世は、胸の奥がちくりと痛んだ。
「姫君。」
「はい。」
「まだ、私のことを諦められませんか。」
「もちろんです。」
姫君の瞳に、静かな強さが宿る。
「惟成様のように、心の底から国を思い、民を思い、欲に溺れず職務に励まれる殿方はそうそうおりません。私個人としても、地方豪族の娘としても、惟成様は夫としてこれ以上ないほど魅力的なお方です。」
惟成は静かに頷いた。
「欲に溺れぬ、と評価していただきましたが、私は自分の欲のために、讃岐での役目を一日でも早く終わらせたいと思っています。」
「惟成様の……欲?」
「はい。」
惟成は少し目を伏せ、穏やかな声で続けた。
「都に残してきた姫と夫婦となり、子を育て、穏やかに暮らしたいという欲です。」
姫君の肩が小さく震えた。
「和気の姫君が私を想ってくださるように、私もまた都に残してきた姫を想っています。そして、その姫は今も私を待ち続けてくれています。」
「それは……。」
「姫君は、そのように自分を待ち続けてくれている姫がいるにもかかわらず、他の姫へ心を移す男が良いのですか。」
姫君は袖をぎゅっと握り締めた。
「私がお慕いしている惟成様は……真っ直ぐで、一度決めたことから決して目を逸らさない方ですわ。」
惟成は静かに微笑んだ。
「これが、私の答えです。」
しばらくの沈黙の後、姫君は静かに頷いた。
「……ええ。私が無理を申し上げておりました。」
そう言うと、少しだけ寂しそうに笑う。
「それでも、明日お見送りくらいはさせてくださいませ。」
「ここからそう遠くはありません。見送るほどではありませんよ。」
「いいえ。これは私の気持ちの問題です。」
姫君は深々と頭を下げた。
「それでは明日。失礼いたします。」
静かに戸が閉まり、姫君は去っていった。
「……紗世、明日の午前にはここを出──」
惟成はそこで言葉を止めた。
振り返ると、紗世が耳まで真っ赤になって固まっている。
「……紗世?」
紗世は惟成の顔を見るなり、慌てて俯いた。
(~~~っ!! ふ、夫婦になって、子どもを育てて、穏やかに暮らしたいって……。それ、ほとんどプロポーズじゃん!!)
「お、おい。本当にどうした?」
惟成は心配そうに顔を覗き込む。
(しかも、それを和気の姫君にはっきり言うなんて……。嬉しいけど……嬉しいけど……恥ずかしい~~~!!)
「紗世?」
バシッ!
「痛っ!」
紗世は恥ずかしさのあまり、惟成の肩を思い切り叩いた。
「じ、自分で何言ったか分かってるの!?」
「何かおかしなことを言ったか?」
「お、おかしくはないけど……惟成って、本当に直球だよね。思ってることを匂わせるとか、遠回しに言うとか、そういうの全然しないし……。」
「……匂わせる? 遠回し? 意味が分からん。」
紗世は苦笑した。
「……でしょうね。送ってくる歌も、いつもそのままの意味だし。」
惟成は少し顔をしかめた。
「……だから歌は嫌いなんだ。なぜ簾が動いただけで、好きな相手が来たと思える? 簾など風でいくらでも動くだろう。」
「惟成……そういうとこだよ。」
紗世は呆れたように肩を落とした。
「で?」
惟成がじっと紗世を見る。
「で? って、何?」
「俺は、お前と夫婦になり、子を育て、穏やかに暮らしたいと思っている。……紗世は?」
「あ……。」
紗世は再び顔を真っ赤にした。
そして、小さく、小さく呟く。
「私も……惟成と一緒になりたい……。」
惟成は優しく紗世の頭へ手を置いた。
「だな。」
その一言だけだった。
だが、その一言で十分だった。
「早く都へ帰れるよう、頑張ろう。」
「うん!」
紗世は嬉しそうに惟成の腕へぎゅっと抱きついた。
惟成は少し照れたように笑いながら、その頭をそっと撫でた。
───翌日
朝餉を済ませると、惟成と紗吉は荷をまとめ、本営の離れを後にした。
荷と言っても、それほど多くはない。
衣や日用品、それに惟成の文箱や書物、地図などを馬へ積み込み、二人は和気の姫君に見送られ、経房に案内されるまま本営を出た。
邸は本営から歩いて程近い場所にあった。
築地塀に囲まれた、落ち着いた佇まいの寝殿造。
かつてこの地の豪族が暮らしていたというだけあり、小ぶりではあるが品のある邸だった。
門をくぐると、南庭には手入れの行き届いた松が並び、涼しい風が御簾を静かに揺らしている。
「思っていたより立派ですね。」
惟成が周囲を見回す。
「長らく空き家でしたが、最低限の修繕だけは済ませました。」
経房は穏やかに笑った。
「さあ、中へ。」
三人は寝殿へ上がる。
「こちらが母屋です。」
広々とした母屋には、まだ何も置かれていない。
「来客があればこちらで応対できますし、お食事などもこちらでなさるとよろしいでしょう。」
惟成は静かに頷いた。
「十分です。」
経房は寝殿の奥を指し示す。
「こちらが塗籠です。」
板戸を開けると、周囲とは違う閉じられた空間が現れた。
「夜はこちらを源様の寝所として使われるとよいでしょう。」
「なるほど。」
惟成は中を一通り見回した。
「それから母屋の周囲ですが、御簾を設ければ局として自由にお使いいただけます。紗吉の局でも書斎でも、お好きなようになさってください。」
「ありがとうございます。」
惟成は深く一礼した。
「本営よりも静かです。こちらの方が仕事もしやすそうですね。」
「そう言っていただけると用意した甲斐があります。」
経房は嬉しそうに笑った。
「今後、源様と相談がある時は私がこちらへ参ります。何か不足がありましたら遠慮なく仰ってください。」
「承知しました。」
「では、私はこれで。」
経房は軽く会釈すると邸を後にした。
門が閉まる音が聞こえる。
邸には惟成と紗吉、二人だけになった。
しばらく静寂が流れる。
「さて。」
惟成は寝殿を見渡した。
「まずは部屋割りを決める。」
「はい!」
紗吉は元気よく返事をした。
「お前は塗籠を使え。」
「…………へ?」
思わず間の抜けた声が漏れる。
「えええぇぇぇっ!?」
惟成は怪訝そうに眉を寄せた。
「何だ。」
「いやいやいや! なんで私が塗籠なの!?」
「一番安全だからだ。板戸も閉まる。夜も安心だ。」
「そういう問題じゃなくて!」
紗吉は両手をぶんぶん振った。
「私、使用人だよ!? 使用人が塗籠なんて使ったら変じゃない!?」
「ここには俺とお前しか住まん。」
惟成は至って真面目な顔で答える。
「そ、それはそうだけど……。」
「女を一人で寝かせるなら、塗籠以外あり得ん。」
紗吉は思わず吹き出した。
「今、女って言った。」
「ここには誰もおらん。」
「……うん。」
「でも惟成は?」
「俺は局で十分だ。」
「えー。局の配置はどうするの?」
惟成は母屋を見回した。
「母屋の北側を御簾で仕切る。最初の局を書斎にする。」
「書斎?」
「ああ。文机と地図を置く。その隣を俺の局にする。」
「書斎と惟成の局、逆にしようよ。」
「なんでだ。」
「塗籠の隣は母屋なんだよ? 惟成のところに行くのに、ただでさえ母屋を通って行かなきゃいけないのに、書斎よりも遠い位置なんて……惟成、遠い!」
惟成は小さく息を吐いた。
「それで良いんだ。」
「なんでぇぇぇ!?惟成が近い方が安心だもん!」
「……紗世。少し、そこへ座れ。」
惟成の静かな声が落ちる。
「はい。」
紗世も真面目な表情で座り直した。
「俺は、お前が思っているほど自制心の利く人間ではない。」
紗世は目を瞬かせた。
「離れでの生活も、毎日がぎりぎりだった。」
「……え?」
「正直、寝不足が続いている。」
「そうだったの!?」
「もし離れでの生活がこのまま続いていたらと思うと、色々な意味でぞっとする。」
「ぞっとするって……。」
「追捕使の任が終わり、無事都へ帰ったとして。」
「うん。」
「万が一、お前が懐妊していたら、検非違使尉様がどうなると思う?」
一気に紗世の顔が真っ赤になる。
「か、懐妊って……。で、でも、父上だって最初は怒るかもしれないけど、孫は絶対可愛いと思う!」
赤くなりながらも必死に言い返す。
「孫は可愛がるだろうな。べたべたにな。」
惟成は苦笑した。
「だが、俺に対しては違うと思う。」
「え?」
「懐妊が判明した瞬間に殺される。」
惟成の目は本気だった。
「子の父親が居なくなっても良いのか?」
「そ、そこまで!?」
「ただでさえ、お前は検非違使尉様を騙すような形で讃岐に居座った。原因は俺だ。『姫の懐妊は許さん』という文も貰っている。それでお前が懐妊したなどと言ったら、間違いなく斬られる。」
「お……おぉう……。」
「そんな未来にしないためだ。分かってくれるな?」
惟成は紗世の両肩を掴んだ。
「……はい。」
返事は、小さかった。




