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第261話 惟成の特権 紗世の特権

惟成はしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。


「……お前を抱き上げていた奴は誰だ。」


「え?」


「漁村でだ。」


「ああ……航太さん?」


「あと、お前の頭を撫でていた奴は。」


「ええと……与一さんと弥助さん、かな。」


「いつもあんな感じなのか?」


「え?」


紗世は首を傾げた。


「あんな感じって?」


「いつもお前をあんな風にべたべた触るのかと聞いている。」


「べたべたって……。」


紗世は困ったように言った。


「あの人達、私のこと男だと思ってるし。他意なんてないよ。」


「……。」


「それに今日は私の様子がおかしいって言われてて、それで余計に構われてただけだと思う。」


「お前の様子がおかしい?」


惟成が眉を寄せる。


「なんでだ。」


「…………。」


紗世は黙った。


「……昨夜のことか。」


「……。」


「怒っているのか?」


「怒ってないよ。」


「怒っているだろう。」


「怒ってないってば。」


「なら、なぜ離れの戸に鍵をかけて俺を締め出した。」


「そ、それは……。」


紗世は視線を泳がせた。


「もう……無意識っていうか……。」


「無意識で鍵をかけるほど怒っていたということではないのか?」


「違うもん。」


「俺が和気の姫君に言い寄られて、ぐらついたと思ったか?」


「違う。」


「俺が貴族としての面子を守るために姫君を受け入れると?」


「やめてよ。」


「讃岐での立場や仕事を円滑に進めるために、一夜を共にするかもしれないと?」


「やめて。」


「俺がお前より先に和気の姫君と男女の契りを――」


「やめてったら!!」


紗世が声を上げた。


「そういうの、聞きたくない……!」


離れが静まり返る。


惟成は少しだけ目を伏せた。


「……俺だって同じだ。」


紗世が顔を上げる。


「他の男に抱き上げられて、頭を撫でられて、囲まれて笑っているお前を見たくなかった。」


「……あ。」


「お前やあいつらに他意がないことくらい分かっている。」


惟成は苦く笑った。


「だが、俺の知らないところでもっと触れられていたんじゃないか。」


「……。」


「実はお前が女だと知っていて、その上で触れているんじゃないか。」


「……。」


「そんな嫌な想像ばかり浮かんだ。」


紗世は言葉を失った。


自分だけじゃなかった。


惟成も、同じだった。


「……でも、こんなことを言えば狭量な男だと思われるんじゃないかと。」


惟成は視線を逸らした。


「お前に失望されるんじゃないかと思った。」


紗世は静かに几帳の内へ入った。


惟成の前に膝をつく。


そして、そっと惟成の袖の端を掴んだ。


「私も……同じ。」


「……。」


「和気の姫君にヤキモチ妬いて。」


紗世は俯いた。


「こんなことで嫉妬するなんて面倒くさいって思われるんじゃないかって。」


「……。」


「惟成に嫌われるんじゃないかって……。」


紗世の目に涙がうっすら浮かぶ。


惟成は静かに紗世を抱き寄せた。


紗世は惟成の胸元に顔を埋める。


「和気の姫君、美人なんだもん……。」


「そうだな。」


「スラッとしてて。」


「ああ。」


「髪も綺麗で。」


「そうだな。」


「教養もあって、頭も良さそうで、性格もさっぱりしてて……。」


紗世はますます小さくなった。


「私が勝てるところって、どこぉ……。」


惟成は少し考えた。


「胸はお前の方があるんじゃないか?」


紗世が顔を上げる。


「この間触った時、身長の割に結構デカかっ――」


ドカッ!!


「いって!!」


惟成の腹に綺麗な蹴りが入った。


「こんな時に何言ってるの!?」


「事実を述べただけだ。」


「述べなくていいの!!」


紗世は真っ赤だった。


惟成は小さく笑った。


そして紗世の手首を掴む。


「わっ――」


そのまま引き寄せられる。


二人揃って畳へ倒れ込んだ。


「ちょ、惟成!?」


「抱き心地はお前の方が良い。」


「……は?」


「柔らかいし。」


「ちょっと!」


「安心する。」


紗世が真っ赤になる。


「暴れるな。」


「暴れるよ!」


「今日は随分触られていたからな。」


惟成が目を細める。


「俺の分も返してもらわないと不公平だ。」


「なにそれ!?」


「まずは――ここだな。」


惟成の指が紗世の脇腹をくすぐった。


「きゃっ――!?」


「ここも触られていた。」


「ちょ、待って、くすぐった――あはははは!!」


「あとここ。」


今度は髪をわしゃわしゃと撫で回される。


「ちょっとぉ!!」


「頭も撫でられていたな。」


「だからって上書きしないで!!」


「上書きではない。」


惟成は真顔だった。


「返してもらっているだけだ。」


「意味わかんない!」


「ははっ。」


惟成が笑う。


紗世は悔しくなって惟成の脇腹を掴んだ。


「えいっ。」


「っ、おい!!」


「お返し!!」


「やめろ!」


「嫌!」


「ふはっ……!」


二人で笑いながら転げ回る。


やがて自然と動きが止まった。


近い。


近すぎる距離。


「……ん。」


惟成が静かに紗世の唇を塞いだ。


短い口づけ。


離れる。


「……唇は。」


紗世が小さく言う。


「他の男は触ってないよ。」


「当たり前だ。」


惟成が答える。


「俺の特権だからな。」


紗世がそっと惟成の唇に触れた。


「じゃあ、惟成の唇は?」


「……。」


「私の特権?」


惟成が少しだけ笑った。


「ああ。」


今度はさっきより長い口づけ。


静かな時間が流れる。


「……紗世。」


「ん?」


「今夜は、このまま一緒に寝よう。」


紗世が目を丸くする。


「一緒に寝るだけだ。」


「……うん。」


「それ以上はしない。」


「うん!」


紗世は嬉しそうに笑った。


そして惟成へぎゅっと抱きつく。


惟成も静かに抱き返した。



───夜半。


紗世が目を覚ますと、すぐ隣に惟成の顔があった。


近い。


昼間なら絶対にあり得ない距離。


思わず息を呑む。


すると惟成もゆっくり目を開けた。


「……起きたか。」


「う、うん。」


月明かりだけの離れ。


静かすぎるほど静かだった。


「眠れないな。」


惟成がぽつりと言う。


「惟成も?」


「ああ。」


少し沈黙。


そして惟成は小さく息を吐いた。


「……正直に言っていいか。」


「え?」


「この状況で何も意識するなという方が無理だ。」


紗世の心臓が跳ねた。


「えっ。」


「好きな女が腕の中にいる。」


惟成の腕が少しだけ力を強める。


「しかも、今日は嫉妬して、泣いて、仲直りまでした。」


「うっ。」


「その上、一緒に寝ようと言ったのは俺だ。」


「そ、それはそうだけど……。」


「だから言う。」


惟成が苦笑した。


「何もしないと言ったが、正直かなり無理をしている。」


紗世の顔が熱くなる。


「そんなこと正直に言わなくていいから!」


「いや、言わないとお前は気付かないだろう。」


「気付くよ!」


「本当か?」


「本当!」


「じゃあ聞くが。」


惟成が少し顔を寄せる。


「お前は平気なのか?」


「へ?」


「好きな男とこんな距離で寝ていて。」


「…………。」


「平気なのか?」


「……平気じゃない。」


小さな声。


「だろうな。」


惟成が笑った。


「流されそうか?」


「うっ。」


図星だった。


「……流されちゃうかも。」


「そうか。」


「そうかじゃないよ!」


紗世は真っ赤になる。


「惟成が変なこと言うから!」


「俺のせいか。」


「惟成のせい!」


「全部?」


「全部!」


惟成は肩を震わせた。


笑っている。


悔しい。


「でも。」


惟成が真面目な顔になる。


「流されるな。」


「え?」


「俺も流されるな。」


「……。」


「二人とも流されたら終わる。」


紗世は思わず吹き出した。


「何その作戦会議。」


「重要な会議だ。」


「確かに重要かも。」


二人で小さく笑う。


そして。


惟成はそっと紗世の額に口付けした。


「今日はこれで我慢する。」


「……我慢って。」


「かなり頑張っている。」


「知らない。」


「ひどいな。」


「惟成が悪い。」


「それも俺か。」


「全部惟成。」


惟成は困ったように笑った。


「分かった。」


「何が?」


「任務継続だ。」


「任務?」


「理性を守る任務だ。」


紗世は声を上げて笑った。


「頑張ってください、惟成様。」


「お前もな、紗世。」


二人は顔を見合わせる。


そして。


「おやすみ。」


「うん。おやすみ。」


今度こそ、本当に。


二人は静かに目を閉じた。

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