第260話 嫉妬
「……っ、おい! 紗吉坊、危ないぞ!」
航太に両脇を抱えられ、ひょいと身体が持ち上がった。
「えっ!?」
紗世が足元を見ると、そこには石臼が置かれていた。
そのまま歩いていたら、今頃は石臼につまずき、転んだ拍子に足を強打していただろう。
「あ、ありがとうございます。」
「今日はやけにぼーっとしてないか?」
航太は紗世を地面へ下ろしながら、じっと顔を覗き込んだ。
海の男達の中で一番若い航太は、まだ十七歳だった。
「いやぁ、昨日ちょっと夜更かししちゃって。」
紗世は頭を掻きながら答える。
「まだ眠そうだな。」
「へ?」
そう言うなり、航太は再び紗世を抱き上げた。
「ほーら、高い高ーい!」
「わ、わあああ!!」
航太は思い切り紗世を持ち上げる。
あまりの勢いに、紗世の身体は宙を舞った。
周囲からどっと笑い声が起こる。
「お、紗吉坊。航太に遊んでもらってんのか。良かったな。」
「ほーら、ぐるぐるぐるーー!」
「ち、違っ──わああああああ!!」
「わはははははは!!」
紗世は大勢の海の男達に囲まれ、まるで末っ子のように可愛がられていた。
───
「源様。次は最近、新しい食べ物を作っていると噂の漁村へ向かいます。」
三宅が惟成へ説明した。
「新しい食べ物?」
「何でも、うどん、とかいう小麦の粉と水と塩で作る食べ物らしくて。」
(もしかして、紗世が教えに行っていると言っていた村か?)
「聞いた話によりますと、ある少年が最初は個人に教えたらしいのですが、あまりの美味さに村全体がその食べ物を作りたいとなったそうです。」
「そうか。少し村を覗いて行こう。」
惟成と三宅が村へ入ると、遠くから大勢の笑い声が聞こえてきた。
「何やら楽しそうですね。……って、あれ!?」
三宅が声を上げる。
「あそこに居るのは、源様の専属使用人の紗吉ではありませんか?」
(……やはりな。)
惟成は目を細めた。
「そのようだな。ある漁村に新しい料理を教えに行くとは言っていたが、ここだったのか……。」
その時だった。
(……っ!?)
惟成が目を見開く。
(待て。紗世の周りにいる者達……全て男ではないか。)
紗世が教えに行くと言った時、惟成は勝手に村の女衆へ教えるものだと思い込んでいた。
海の男達に囲まれている紗世。
頭を撫でられ、
抱き上げられ、
男達は全身で紗世を可愛がっている。
そして、その中心で笑う紗世。
惟成の心臓が強く脈を打った。
「紗吉がいるなら、呼んで参りましょうか。」
「いや、いい。」
「え?」
三宅が振り返る。
だが、惟成は既に踵を返していた。
「ここで聞かなくても、帰れば聞ける。」
そう言って前を向く。
「他の場所の視察へ行くぞ。」
「は……はい!」
三宅は慌てて惟成の後を追った。
─────
紗世が夕方、離れへ戻った時には、既に惟成は文机に向かって座っていた。
「……遅くなって申し訳ありません。すぐに夕餉の支度をしますので。」
「ああ。」
惟成は振り返ることなく答えた。
紗世もまた、昨夜の出来事が頭から離れなかった。
お互いに言葉を探しながら、結局何も言えないまま時間だけが過ぎていく。
その夜の夕餉には素麺を出した。
「今、漁村で試作をしている素麺です。同じ材料でも細さを変えると食べ方も変わりますので、主食の幅が広がるかと思いまして。」
紗世は淡々と説明した。
「そうだな。」
惟成は素麺を口に運ぶ。
「細いが、うどんとはまた違った美味さがある。」
確かに美味いと言っている。
けれど、その表情は驚くほど無表情だった。
夕餉の会話はそれだけで終わった。
離れには重い沈黙だけが残る。
やがて紗世が片付けを終えて戻ってくると、いつものように几帳を並べ始めた。
一つ。
二つ。
そして――三つ目。
それを見た惟成が口を開いた。
「紗世。」
「今は紗吉でございます。」
「紗世。」
「…………。」
「なぜ三つなんだ?」
「え?」
「几帳だ。」
惟成は静かに言った。
「几帳は二つにすると、お互い納得しただろう。」
紗世は視線を逸らした。
「……怒っているのか。」
「別に怒っているわけでは……。」
「昨夜、俺は何も無かったと言った。」
「はい。」
「お前も分かったと言っただろう。」
「はい。」
「なら、何故そんなによそよそしい。」
紗世は唇を噛んだ。
「……弁えているだけです。」
「弁える?」
惟成が眉を寄せる。
「どういうことだ。」
「殿方が複数の姫と関係を持つことは珍しくありません。」
紗世は袖をぎゅっと握った。
「まして惟成様は、讃岐では豪族との関係を良好に保つことも仕事のうちでしょう。」
「……。」
「使用人の立場である私が口を出せることではありません。」
紗世は源惟成という男をよく知っている。
不誠実な男ではない。
人を裏切る男でもない。
自分を悲しませるようなことを、好んでする男でもない。
それでも。
貴族の男として生きる以上、避けられないこともある。
惟成に怒っているわけではなかった。
ただ、この時代にはそぐわない嫉妬を押し殺すことに必死だった。
けれど、そんな紗世の心の内を惟成が知ることはできない。
「……そうか。」
惟成は静かに言った。
「お前もお前で、人間関係を築いているようだしな。」
紗世が顔を上げる。
「俺にはよそよそしいのに、漁村の男達とは随分楽しそうだった。」
「……見てたのですか?」
「ああ。」
惟成は頷いた。
「楽しそうに笑っていた。」
「なんで声を掛けてくれなかったのです?」
「頭を撫でられて、抱き上げられて、随分楽しそうだったからな。」
惟成は視線を逸らした。
「邪魔かと思った。」
そして、小さく続ける。
「……良かったな。」
「そんな……。」
紗世は目を見開く。
「良かったなんて……。」
「俺は、お前がうどんを教えている相手は女衆だと思っていた。」
惟成は淡々と言った。
「相手が男達なら、お前は俺に言うと思っていたからな。」
「あ……。」
紗世は言葉を失った。
「別に黙っていたわけじゃないの。ただ……言い忘れていただけで……。」
俯く。
そして小さな声で言った。
「……ごめんなさい。」




