閉ざされた戸
───和気の姫君の部屋
惟成が部屋へ入ると、脇へ寄せられていた几帳を持ち上げ、自分と姫君の間へ静かに置いた。
「まだお話があるのでしたら、どうぞ。」
抑揚のない声だった。
姫君は目を見開く。
「……ここまで来て、こんな事をなさるのですか?」
惟成は答えない。
「私は惟成様をお慰めするために、お部屋へお呼びしたのです。」
「慰めなど必要ありません。」
「では、なぜここまで黙ってついて来られたのですか!?」
姫君の声が震えた。
惟成は静かに答える。
「姫君に恥をかかせないためです。」
その言葉に、姫君は息を呑んだ。
「私はもう離れへ戻ります。」
「……。」
「私が姫君へ無礼を働き、追い出されたと言えばよろしい。そうすれば姫君に傷はつきません。
もし誰かに今宵のことを見られていて、なぜ私が出てきたのかと問われたなら、そのように答えれば良いでしょう。」
姫君は唇を強く噛んだ。
「私に……そんな惨めな言い訳をしろと仰るのですか?」
「この言い訳がお気に召さぬなら、何も仰らなければよい。」
惟成は静かに続ける。
「何も言わなければ、そのうち噂も収まります。」
姫君は俯いた。
そして、小さく呟く。
「複数の姫に通うことも、関係を持つことも、珍しいことではないでしょう……?」
平安の貴族社会では、男が複数の女性と関係を持つこと自体は珍しくなかった。
「なぜ、そんなにも私を拒むのですか?」
惟成は少しだけ目を伏せた。
「私は、一人の姫と情を交わすので手一杯なのです。」
「……。」
「他の姫と、など考える余裕もありません。」
惟成は立ち上がろうとした。
その瞬間。
姫君の手が、惟成の袖を掴んだ。
「今宵だけ……。」
細く掠れた声だった。
「今宵だけで良いのです。」
袖を握る手が震えている。
「どうか……どうか、一夜だけ……。」
惟成は静かに振り返った。
そして、袖を掴むその手を両手で包む。
そっと。
優しく。
「俺は。」
惟成は静かに言った。
「俺は、あいつを裏切りたくない。」
姫君の指先から力が抜ける。
惟成は静かに頭を下げた。
「申し訳ありません。」
そう言うと、部屋を後にした。
───離れ
惟成は離れの戸の前で足を止めていた。
(……怒っているか。)
なんと声を掛けるべきか。
何から説明するべきか。
頭の中で何度も言葉を組み立てる。
(いや、俺は何もしていない。)
そう思う。
(聞かれたことに対して、事実をそのまま話せばいい。)
意を決して戸へ手を掛けた。
ガタッ。
「……?」
もう一度引く。
ガタッ。
開かない。
ガタガタッ!!
やはり動かない。
惟成は眉をひそめた。
「……嘘だろ。」
さらに力を込める。
だが戸はびくともしない。
「あいつ……鍵を掛けたのか……?」
その時だった。
足元を何かがするりと通る。
虎徹だった。
「虎徹。」
〈お主、何をしでかした?〉
「何もしていない。」
惟成は小声で答える。
〈紗世は先ほど、呆然とした顔で戻ってきたぞ。〉
「……少し、誤解があっただけだ。」
〈鍵を閉めているということは、怒っているのではないか?〉
「説明すれば分かる。」
惟成は小さく息を吐いた。
「紗世が怒るようなことも、悲しむようなこともしていない。」
そして虎徹を見る。
「虎徹。」
〈なんだ?〉
「中へ入って、鍵を開けてきてくれないか。」
虎徹は目を細めた。
〈開けても良いが、紗世はもう寝ているぞ。〉
「それでもいい。」
虎徹は明かり取りから、するりと中へ入っていった。
しばらくして。
カタン。
小さな音が聞こえる。
惟成が再び戸へ手を掛ける。
今度は開いた。
静かな離れ。
月明かりだけが中を照らしていた。
そして。
離れの中央には、几帳が三つ並んでいた。
惟成は思わず足を止める。
普段は二つ。
今日は三つ。
その意味を理解するのに時間は掛からなかった。
几帳を回り込む。
布団の中には紗世がいた。
頭まですっぽり布団を被っている。
「……紗世。」
返事はない。
「紗世。」
静かに布団を少しだけめくる。
眠っていた。
だが、頬には涙の跡が残っていた。
惟成は小さく息を吐く。
そして、そのまま紗世の隣へ横になった。
起こさないように。
驚かせないように。
そっと、紗世の肩へ手を置く。
「……悪かった。」
返事はなかった。
波の音だけが、遠く聞こえていた。
───翌朝
惟成が目を覚ますと、腕の中にいたはずの紗世の姿はもう無かった。
外では朝餉を用意している気配がする。
惟成が起き上がり外へ出ると、紗世はいつも通り朝餉の支度をしていた。
「惟成様。おはようございます。じき朝餉が出来上がりますので、もうしばらくお待ちください。」
主人に仕える紗吉としては満点の答え。
「分かった。」
(これは……怒っているな。)
やがて朝餉の準備が整う。
握り飯二つ。
魚の干物。
汁物。
いつも通りの内容。
ただ、紗世が静かだった。
「……紗世。」
惟成が意を決したように口を開く。
「今は、紗吉でございます。」
「紗世に言いたいことがある。」
「左様でございましたか。どうぞ。」
「昨夜のことだが、何も無かった。それだけだ。」
「そうですか。」
沈黙。
「何も無かったと言っている。」
「分かりました。」
再び沈黙。
「惟成様。」
「なんだ?」
「私は今日も午前中から出掛けます。夕方には戻ります。」
「そうか。」
「惟成様の本日の予定は?」
「ここ二週間ほど、海賊が出る様子が全くなくてな。今日は市や漁村へ行き、市井の様子を視察してくる予定だ。」
「そうですか。では、私はもう行きますので。」
紗世は立ち上がった。
「ああ。」
静かに戸が閉まる。
惟成は閉じられた戸を見つめた。
「…………やはり、怒っているか。」




