第258話 和気の姫君の本気
紗世が本営の離れへ戻ると、すでに惟成が帰ってきていた。
「あれ? お帰り。今日は早かったね。すぐにご飯の用意するね!」
そう言いながら台盤所へ向かおうとした紗世を、惟成が呼び止める。
「ああ。だが、和気殿に呼ばれていてな。飯は向こうで出るだろうから、用意しなくてもいいぞ。」
「あ……そうなんだ。分かった。」
紗世は笑顔を作ったものの、胸の奥に小さな不安が落ちた。
(軍議かな……。)
だが、もし軍議なら和気経房だけということはない。
(もしかして、姫君との……?)
考えたくもない想像が頭をよぎり、紗世は小さく唇を噛んだ。
――和気経房の邸
惟成と経房、二人は向かい合って夕餉を食べていた。
「源殿。そなたに頼まれていた件を調べた。」
そう言って経房は、茶を飲みながら一枚の書状を惟成へ差し出した。
惟成は静かに目を通し、小さく息を吐く。
「……やはり、でしたか。」
「まさか……讃岐守様とはな……。」
経房の顔には、隠しきれない悔しさが浮かんでいた。
「長年共に海賊を追ってきた。そう思っておったのだがな……。裏切られた気分だ。」
「海賊の黒幕は、讃岐守様だけでは無理です。」
惟成は書状を畳みながら続けた。
「私の方でも朝廷側を調べましたが……やはり、それなりの官位の者が関与しております。」
「それなりの官位……?」
「中納言です。」
経房の眉が動く。
「そうは言っても、現在中納言様は五人おられます。どの中納言様が讃岐守様と共謀しているのか……そこはこれからさらに調べねばなりません。」
「中納言様か……。」
経房は苦々しげに呟いた。
「しかし、源殿。」
「なんでしょう?」
「こうなると最早、海賊討伐ではない。この件にこれ以上首を突っ込むのは、そなたの方が危険ではないか?」
「でしょうね。」
惟成はあっさりと答えた。
「しかし、これによって海賊という存在そのものがなくなるのであれば、私も無関係とは言えません。調査は続行いたします。」
しばし、沈黙が落ちる。
やがて箸を置き、経房が口を開いた。
「源殿――」
「お受けいたしかねます。」
「まだ何も言っておらん。」
「和気様の姫君の夫にならぬか、と仰るのでしょう?」
「なぜ分かった。」
「この流れで次に来る話題は、それかと思いましたので。」
「……ぬぅ。」
経房は腕を組んだ。
「源殿は我が姫が気に入らぬか?」
「気に入る、気に入らぬの問題ではありません。」
「そなたが都に残してきた姫か?」
「はい。」
「その姫を忘れるために、追捕使の任を受けたのではなかったのか?」
「……正直、讃岐へ来た当初はそう思っておりました。」
惟成は箸を置き、静かに目を伏せる。
「ですが――」
ゆっくりと瞬いた。
「忘れることはできませんでした。」
その声は驚くほど穏やかだった。
「そして、都に残してきた姫もまた、私と同じ想いであると知りました。」
「文でも来たか?」
「……ええ。」
(来たのは本人だが。)
「姫は、何年でも待つと言ってくれました。」
惟成は真っ直ぐ前を見る。
「ならば私は、一日でも早く任を終え、帰京しなければならないのです。」
(検非違使尉様が讃岐へ乗り込んでくる前に。)
「そうか……。」
経房は小さく笑った。
「何年でも待つ、か。」
遠くを見るような目だった。
「源殿がそこまで惚れ込む姫か。奥ゆかしく、一途で、淑やかで、美しい姫君なのだろうな……。」
(頑固で、猪突猛進で、馬にまで乗る元気な姫だがな。)
「……申し訳ございません。」
「まあ、よい。」
経房は肩を竦めた。
「だが、私以上に姫はそなたに惚れ込んでおる。そなたに想う姫がいるのは分かったが、我が姫をあまり傷つけぬよう頼む。」
「はい。」
経房は小さく息を吐いた。
「では、讃岐守様と中納言様の件は、まだ私と源殿だけの胸に留めておこう。」
「はい。」
「海賊と関わる、もっとはっきりした証拠が出た時点で軍議にかける。」
「承知しました。」
惟成は深く頭を下げる。
そして静かに部屋を後にした。
────
惟成が離れへ戻ろうと庭を抜けていた時だった。
「源様。」
背後から静かな声が落ちた。
振り返ると、そこには和気の姫君が立っていた。
「どうなさいました。このような夜更けに。」
「今まで父とお話をしていたのでしょう?」
「ええ。海賊の黒幕について、いくつか進展がありましたので。」
「……それだけですか?」
惟成は僅かに目を細めた。
「それだけ、とは?」
「私との縁談のお話もあったのではありませんか?」
「…………ええ。」
「その様子ですと、私との縁談は断られたのでしょうね。」
「申し訳ありません。」
姫君は俯いた。
だが、すぐに真っ直ぐ惟成を見上げる。
「父は諦めたかもしれません。でも――私は、まだ諦めておりません。」
「…………。」
「今、源様の一番近くにいるのは私です。」
(紗世は俺と同じ離れで暮らしているが。)
惟成は心の中だけでそう呟いた。
「讃岐にいる間は、私がお支えいたします。源様……いえ、惟成様を。」
「……身の回りの世話は紗吉がしております。」
「紗吉は男ではありませんか……!」
姫君は一歩踏み出した。
「心安らぐ慰めは、女にしかできません。」
そう言って、惟成へ抱きつく。
惟成は目を見開いた。
「……姫君。お離しください。」
「私では、お慰めできませんか?」
顔を上げた姫君の瞳は真剣だった。
「和気の姫君のなさる振る舞いではありません。」
惟成は肩へ手を置き、引き離そうとする。
だが姫君は離れなかった。
「和気の姫君だとか、都の姫だとか……そんなもの関係ありません。」
声が震える。
「お慕いしているのです。惟成様。」
「姫君。夜も更けております。部屋へお戻りください。」
「嫌です。」
姫君は首を振った。
「殿方を慰めるのは女の役目です。」
「それは妻の役目でしょう。未婚の姫君の役目ではありますまい。」
惟成の声が少しだけ厳しくなる。
「これ以上、ご自身の品位を下げるおつもりですか。」
姫君は唇を噛んだ。
「惟成様は、女に恥をかかせるおつもりですか?」
「……。」
「海の女の情は激しいのです。都の静かなだけの姫君とは違います。」
そう言って姫君は胸元を押さえた。
惟成の眉間に皺が寄る。
その時だった。
「……惟成様?」
背後から聞こえた声。
惟成の身体が強張る。
振り返る。
そこには紗世が立っていた。
少し乱れた呼吸。
不安そうな瞳。
そして――
惟成に抱きついている姫君。
紗世の思考が止まる。
「紗……吉。」
惟成が口を開く。
「これは――」
「紗吉!」
姫君が声を上げた。
「は、はいっ!」
反射的に返事をしてしまう。
「惟成様は今宵、私の部屋へ泊まられます。」
「なっ……!?」
惟成が姫君を見た。
紗世の瞳が大きく揺れた。
「あなたは離れへ戻って休みなさい。」
「え……?」
言葉が出ない。
惟成を見る。
姫君を見る。
もう一度、惟成を見る。
頭の中が真っ白だった。
「紗吉。」
姫君がもう一度呼ぶ。
「これ以上は野暮ですよ。」
胸の奥がぎゅっと痛んだ。
苦しい。
息が詰まる。
何か言わなければ。
聞かなければ。
そう思うのに、声が出ない。
「…………。」
紗世は唇を噛んだ。
そして――
「……失礼、します。」
気付けばそう言っていた。
踵を返す。
そのまま庭を駆け抜ける。
逃げるように。
離れへ向かって。
「紗吉!」
惟成の声が聞こえた気がした。
だが紗世は振り返らなかった。
振り返ったら。
きっと泣いてしまう気がしたから。
「姫君!」
惟成は険しい表情で姫君を見た。
しかし姫君は俯いたままだった。
「お願いです。」
小さな声。
「惟成様……私に恥をかかせないでくださいませ。」
震える指が惟成の衣を掴む。
「一度だけで構いません。」
涙が頬を伝った。
「私の部屋へ来てください……。」
夜風だけが静かに庭を吹き抜けていた。




