第255話 海を変える一杯
───讃岐・市
紗世は両腕いっぱいの荷物を抱え、市の中を歩いていた。
「相変わらず人が多いなぁ……。」
行き交う人に荷物がぶつからないよう気を付けながら進む。
干物を売る声。
野菜を並べる声。
魚の匂い。
潮の匂い。
活気に満ちた讃岐の市だった。
(前に黒の旦那のおにーさんに会ったの、この辺だったよね。)
きょろきょろと辺りを見回す。
だが、片目に傷のある男の姿は見当たらない。
紗世は魚を並べていた店主へ声を掛けた。
「すみません。黒の旦那のおにーさんに用があるんですけど、知りませんか?」
その瞬間。
店主の眉がぴくりと動いた。
「坊主。」
先日の威勢のいい商人の声ではなかった。
低い。
探るような声。
「黒の旦那に、何の用だ?」
紗世は一瞬だけ目を瞬かせた。
「あ、えっと……。」
慌てて答える。
「料理を頼まれてたんです。」
「料理?」
「はい。先日、市で助けてもらったお礼に料理を作る約束をしたんです。」
店主は黙って紗世を見る。
「出来たらここへ来いって言われてて……黒の旦那に用があるって言えば会えるって聞いてたんですけど……。」
しばらくの沈黙。
やがて店主は短く言った。
「……少し待ってろ。」
そう言うと店主は走り出し、人波の中へ消えていった。
紗世は荷物を抱えたまま待つ。
しばらくすると――
人混みの向こうから、見覚えのある男が歩いてきた。
片目の傷。
高い背。
鋭い眼光。
「おお。」
男が口の端を上げる。
「チビ。本当に来たのか。」
「もちろんです!」
紗世はぱっと顔を明るくした。
「だって先日のお礼をまだしてませんから!」
ぺこりと頭を下げる。
「先日はありがとうございました!」
男は少しだけ目を丸くした。
「律儀な奴だな。それで?」
男が聞く。
「料理は成功したのか?」
「はい!」
紗世は抱えていた荷物を叩いた。
「ただ、まだ完成じゃないんです。」
「何?」
「この料理、作ってから時間が経つと美味しくなくなっちゃうんです。」
「ほう。」
「なので持ってきたのは材料です。ここから作ります。」
男は少し考えた後、
「……ついてこい。」
そう言って踵を返した。
「はい!」
紗世は慌てて後を追う。
市を抜ける。
人の声が遠ざかる。
やがて辿り着いたのは、小さな漁村だった。
さらに村の奥。
男は一軒の小屋の前で立ち止まった。
中には竈。
調理台。
鍋。
まるで台盤所のようだった。
「ここを使え。」
男が言う。
「道具は足りるか?」
紗世は小屋の中を見回した。
「はい!大丈夫そうです!」
そして、ふと思い出す。
「あ、それと……。」
男を見る。
「今日、料理を食べるのは黒の旦那のおにーさんだけですか?」
男が眉を上げた。
「どういう意味だ?」
「この前、病気の人でも食べられるかって聞いてましたよね?」
紗世は言った。
「だから、もしかして病気の方にも食べさせたいのかなって。」
男は数秒黙る。
そして、
「ああ。」
短く答えた。
「作れるなら二人分頼む。」
「分かりました!」
紗世は笑った。
「頑張ります!」
袖を襷でまとめる。
荷物を広げる。
出汁。
鯵のつみれ。
薬味の材料。
そして――
うどん。
男は不思議そうに細長い麺を見つめた。
「これは何だ?」
「うどんです!」
「うどん?」
「はい!」
紗世は嬉しそうに笑う。
「小麦粉と水と塩で作るお米に変わる料理なんです。」
男は細い麺を見つめる。
見たことがない。
聞いたこともない。
だが、どこか妙に惹かれるものがあった。
「面白い。」
男は腕を組んだ。
「作ってみろ。」
「はい!」
紗世は元気よく頷いた。
紗世は早速、調理に取り掛かった。
まずは大きな鍋に湯を沸かす。
今日作るのは二種類。
片目に傷のある男のための「ざるうどん」と、病に伏せる人のための「かけうどん」だ。
(ざるうどんは惟成に出したものと同じ。でも病人なら、柔らかく茹でた温かいうどんの方が食べやすいよね。)
紗世は荷物の中から、朝のうちに作ってきた鯵のつみれと出汁を取り出した。
(栄養も摂ってほしいし、つみれも乗せよう。)
鍋に出汁を張る。
醤を加え、塩で味を整える。
ゆっくりと湯気が立ち上っていく。
「料理は二つ作るのか?」
男が不思議そうに覗き込んだ。
「いえ、同じ料理です。」
紗世は笑った。
「冷たいものと温かいものを作るだけです。」
「ほう……。」
男は腕を組んだまま、興味深そうに眺めている。
やがて、うどんが茹で上がった。
半分はざるへ。
もう半分は出汁の鍋へ移す。
「長細いな……。」
男が目を細めた。
「こんな食べ物は初めて見る。」
「温かい方は、このまま出汁と一緒に煮ます。」
ぐつぐつ。
鍋の中で白い麺が揺れる。
紗世はざるうどんを井戸水で締め、器へ盛った。
薬味の葱。
おろし生姜。
そして、つけ汁。
「はい、黒の旦那のおにーさんの分です!」
男は膳を見下ろした。
「……どうやって食うんだ?」
「こうです!」
紗世は箸で一本持ち上げ、つけ汁につけて啜ってみせた。
男も見よう見まねで一本掴む。
つけ汁へ。
そして口へ。
「――――。」
男の目が見開かれた。
「なんだ、これは……。」
もう一口。
さらにもう一口。
「米でもない。」
ずるっ。
「粟でもない。」
ずるずるっ。
「なのに食べ応えがある……!」
気づけば箸が止まらなくなっていた。
「美味い!!」
紗世の顔がぱっと明るくなる。
(良かった……!)
その頃には、かけうどんの方もちょうど良い頃合いになっていた。
紗世は鍋を覗き込む。
柔らかく煮えた麺。
ふわりと香る出汁。
「うん、いい感じ。」
深めの器へ移し、鯵のつみれを乗せる。
刻んだ葱を散らした。
「これは病人の方用です。」
男が器を覗き込む。
「冷たいものより柔らかく茹でてあります。消化にもいいと思います。」
紗世はつみれを指差した。
「鯵を細かく叩いて丸めてあります。柔らかいので食べやすいと思います。」
立ち上る湯気。
男はしばらく黙って見ていたが、
「それを持って、ついてこい。」
そう言って小屋を出た。
案内されたのは隣の小屋だった。
中には、一人の女性が横になっていた。
細い体。
青白い顔。
男が静かに声を掛ける。
「飯を持ってきた。」
女性がゆっくり目を開く。
「今日は変わった料理を持ってきた。」
男はその背中を支えた。
「少しは食えるかもしれん。」
(奥さんなのかな……。)
紗世は器を置いた。
「こんにちは。紗吉と言います。」
ぺこりと頭を下げる。
「うどんという料理を持ってきました。」
女性はかすかに微笑んだ。
「まあ……ありがとうございます。」
儚げな笑顔だった。
男は箸でうどんを持ち上げる。
「この細いのがうどんというらしい。」
湯気を吹く。
「食ってみろ。」
女性はゆっくり口へ運んだ。
静かに噛む。
そして――
「……柔らかい。」
男の表情が変わった。
「どうだ?」
女性は小さく頷いた。
「美味しいです……。」
男の顔が明るくなる。
「そうか!」
思わず声が大きくなる。
「美味いか!」
女性は少し笑った。
「ええ。」
「もう少し食べられるか?」
「いただきます。」
男は嬉しそうに箸を動かした。
「熱いから気を付けろ。それと、この鯵のつみれも食べてみろ。」
つみれを小さく割る。
口へ運ぶ。
「……美味しい。」
女性が目を細めた。
「柔らかくて、生姜と葱も入っているんですね。」
「そうか!」
男はまるで自分のことのように嬉しそうだった。
「美味いか!」
結局。
女性はうどんを半分以上食べた。
男は何度も「すごいな」と呟いていた。
────────
帰り際。
男がぽつりと言った。
「先程の者は、儂の妻だ。」
「やっぱり奥さんだったんですね。」
「ああ。」
男は空を見上げる。
「生まれつき身体が弱くてな。」
少し黙る。
「飯もあまり食えん。」
紗世は静かに聞いていた。
「だが今日は違った。」
男は小さく笑った。
「あいつがあれだけ食う姿を見たのは、何年振りだろうな。」
「……。」
「年々弱っていくのを見ていると焦る。」
男は拳を握った。
「何かしてやりたいのに、何もできん。」
紗世は何も言えなかった。
「だが今日、あいつは食った。」
男は嬉しそうに笑った。
「まだ食える力が残っていたんだと、少し安心した。」
「そうだったんですね。」
男は紗世を見る。
「紗吉。」
「はい?」
「うどんの作り方を教えてくれんか。」
紗世は目を瞬いた。
「作り方……ですか?」
「そうだ。」
男は頷く。
「材料は小麦粉と塩と水だけなんだろう?」
「はい。でも結構体力を使いますよ?」
男は笑った。
「お前の細腕でできたことが、海の男にできんと思うか?」
紗世も思わず笑った。
「それもそうですね。」
「いつ教えに来ればいいですか?」
すると男は首を横に振った。
「教える相手は儂だけじゃない。」
「え?」
「この讃岐の海の男達に教えてほしい。」
紗世は目を丸くした。
「うどんは、きっとここの者達に受け入れられる。」
男は断言した。
「儂が気に入ったんだ。」
にやりと笑う。
「それは保証する。」
紗世の脳裏に、惟成の言葉が浮かんだ。
――米より安い。
――庶民に広がればいい。
(もしかしたら……。)
惟成の力になれるかもしれない。
讃岐の人達の役に立てるかもしれない。
紗世は顔を上げた。
「分かりました!」
ぱっと笑う。
「うどんの作り方、教えます!!」




