第253話 写経と煩悩
惟成は海辺の岩場に腰を下ろした。
波が岩礁に打ちつけられ、細かな飛沫が舞う。
頭を冷やすには丁度良い。
そう思いながら項垂れ、少し赤く腫れた額に手を当てた。
(危なかった……。)
脳裏に浮かぶのは、先ほどの紗世の姿。
潤んだ瞳。
熱を帯びて赤くなった頬。
滑らかな白い肌。
白い肌に映える黒髪。
そして――
柔らかな感触。
「…………。」
惟成はじっと自分の手を見た。
紗世の胸に触れてしまった手。
(……意外とあったな。)
普段は幾重にも衣を重ねているため、体つきなどほとんど分からない。
正直なところ、思っていたより豊かだった。
「………………。」
───バシィッ!!!
惟成は勢いよく手を岩へ叩きつけた。
(意外とあった、ではないわ!!)
頭を抱える。
(どうするんだ、これから!!)
まだ紗世と同じ離れで暮らし始めて、それほど日が経っていない。
それでこれだ。
温かな夜風が吹き抜ける。
その時、脳裏に浮かんだのは藤原兼成の顔だった。
そして、あの文。
『姫の懐妊は許さん』
「…………。」
惟成は夜空を見上げた。
海賊討伐がいつ終わるかなど分からない。
三か月後か。
半年後か。
一年後か。
あるいは数年先か。
「半年我慢できれば、頑張った方だと思うんだがな……。」
ぽつりと呟く。
しかし同時に、別の問題にも気付く。
紗世は今、紗吉という少年として振る舞っている。
男装している以上、周囲からは男だと思われている。
(……万が一、懐妊したら周囲にどう説明すればいいんだ。)
頭が痛くなった。
だが、紗世を住まわせる場所は他に思いつかない。
男装しているからこそ、自分の離れに置くのが最も安全なのだ。
兼成からの文。
紗吉という偽りの身分。
同じ離れでの生活。
何を考えても、結論はひとつだった。
「今は我慢するしかないな……。」
大きく息を吐く。
「昼間は海賊討伐に意識が向いているから良い。」
波の音が響く。
「問題は夜だな……。」
沈黙。
さらに沈黙。
そして、
「…………写経でもするか。」
波音だけが静かな夜へ溶けていった。
────
「もぉ~……夜ご飯できたのに。惟成、どこまで行ったんだろう。」
紗世は海辺を歩きながら辺りを見回した。
夜の海風が心地良い。
ふと、先ほどの出来事が脳裏をよぎる。
いつもより熱を帯びた口付け。
直接伝わった体温。
惟成の大きくて温かい手。
「やだっ!」
両手で頬を押さえる。
「何思い出してるの、私!」
だが――
嫌ではなかった。
胸が激しく高鳴る。
それでも、惟成に触れられて感じたのは安心感だった。
今までだってそうだ。
抱きしめられれば安心した。
手を握られれば落ち着いた。
どんな時も、惟成に触れられると心が安らいだ。
(……さっきも、惟成が止めなかったら。)
顔が一気に熱くなる。
(流されてたっていうか……受け入れてたよね、私……。)
真っ赤になった。
(だめじゃん!!)
思わず頭を抱える。
(自制心が必要なの、私の方じゃん!!)
はぁ、と大きくため息をついた。
その時。
岩場に腰掛ける惟成の姿が目に入った。
(と、とにかく料理頑張ろう!)
小さく拳を握る。
(料理なら惟成も喜んでくれるし、私も気が紛れるし!)
「惟成ーーーー!」
大きく手を振る。
惟成もこちらに気付き、立ち上がった。
そして歩み寄ってくる。
「ご飯、できたよ!」
「ああ。」
優しい声。
優しい眼差し。
いつもの惟成だった。
(惟成って本当に動じないよね……。)
紗世はちらりと横顔を見る。
「なんだ?」
「ううん。」
首を振る。
「今日のご飯ね、アジのつみれ汁作ったんだ。」
「新しい料理か?」
「うん!」
「そうか。」
惟成は微笑んだ。
「楽しみだな。」
その穏やかな笑みに、紗世も自然と笑顔になる。
しばらく歩いた後、
「紗世。」
惟成が呼んだ。
「なに?」
「後で新しい白紙の巻物を持ってきてくれ。」
「いいけど……なんで?」
惟成は平然と答えた。
「写経する。」
…………。
間。
…………。
「なんで?」
───夜・離れ
「紗世、話がある。」
惟成が切り出した。
「はい。」
真剣な声音に、紗世は自然と姿勢を正した。
「この離れの中で、一応、俺と紗世の生活空間は分けているが……もう少し、しっかり区切ろうと思う。」
「え?具体的には?」
惟成は立ち上がると、壁際に寄せてあった几帳を運び始めた。
一つ。
二つ。
三つ。
横一列に並べ終える頃には、惟成のいる側と紗世のいる側はほとんど見えなくなっていた。
「こうする。」
「ええ〜〜〜……。」
不満そうな声が漏れる。
「ええ〜、とは何だ。」
「だって、これじゃ惟成が見えないじゃない。」
「見えないようにしているんだから当たり前だろう。」
「何でこんなことするの?今まで通りでいいじゃない。」
紗世は唇を尖らせた。
「お前な……さっきの事をもう忘れたか。」
「わ、忘れたわけじゃないけど……やりすぎじゃない?」
「これでも足りないくらいだ。」
惟成は真顔だった。
紗世はむぅ、と頬を膨らませる。
「これじゃ惟成が見えない。」
「見えなくていい。」
「抱きつけない。」
「抱きつくな。」
「イチャイチャできない。」
「しなくていい。」
紗世はさらに頬を膨らませた。
「いいか?そもそもお前は今、『紗吉』だ。男の設定なんだぞ。」
「うっ。」
「男が俺に対して『見えない』『抱きつけない』『イチャイチャできない』は、おかしいだろう。」
惟成はこめかみを押さえた。
「それに、お前は元々近すぎる。」
「近すぎる?」
紗世は首を傾げる。
「都にいた頃からそうだ。顔を隠さないだけじゃない。御簾はやたら上げるし、几帳はずらすし退けるし、それが日常茶飯事だった。」
「うっ……。」
「俺だけじゃない。源氏の君や頭中将様達に対しても同じだったろう。」
「それは……。」
反論できない。
「だから、几帳はこのままだ。いいな。」
「一つ。」
「は?」
「几帳、今三つ並んでるけど、一つでも十分顔は隠せるでしょ。一つ。」
「三つだ。」
「一つ!」
「駄目だ。」
「一つで十分だってば!」
「三つだ。」
「ひどい!惟成は私を見たくないんだ!」
「見たくないんじゃない。」
惟成は小さくため息をついた。
「見ないようにしたいだけだ。」
「見たくないんじゃん。」
紗世の目が潤む。
「……その手には乗らん。三つだ。」
「やあああああ〜〜〜!!」
結局。
間を取って、几帳は二つになった。
───深夜
カタン。
小さな音に惟成が振り返る。
そこには虎徹がいた。
〈なんだかんだ、お主は紗世に甘いな。〉
「うるさい。」
〈まあ、紗世の気持ちも分かる。〉
「何がだ。」
〈お主は、いつ死んでもおかしくない任で都を離れたにも関わらず、何も言わず紗世の前から消えた。〉
「…………。」
〈知っているか?〉
虎徹が静かに言う。
〈都にいた頃、紗世は毎晩、寝所に入ると神仏にお主の無事を祈っていた。〉
惟成は目を伏せた。
〈眠る前、毎日だ。〉
波の音だけが聞こえる。
〈お主に再会したあの日まで。〉
胸の奥が少し痛んだ。
〈旅の間も同じだ。毎晩、お主の無事を祈っていた。〉
惟成は黙ったまま、几帳の向こうを見た。
紗世の寝息がかすかに聞こえる。
〈それほど、お主を失うのが怖かったのだろう。〉
「……そうか。」
小さく漏れる。
〈お主がお主なりに紗世を大事に思っていることは、儂も知っている。〉
一拍。
〈だがな。〉
虎徹が目を細める。
〈突然、都を離れることになったように、また突然、何が起こるか分からん。〉
惟成は黙っていた。
〈その時になって、『あの時こうしておけば良かった』と後悔しなければいいがな。〉
「……そうだな。」
ぽつりと呟いた。
〈儂としては、子を拵えてしまえば良いと思うが?〉
虎徹はニヤリと笑った。
「黙れ。」
〈子ができれば、紗世を他の男に取られる心配も、無茶をする心配も減るぞ?〉
「うるさい。」
〈むしろ、今は誰にも邪魔されず子を作る好機ではないか?〉
「黙れと言っている。」
虎徹は愉快そうに尻尾を揺らした。
〈三か月だな。〉
「何がだ。」
〈お主が我慢できる時間だ。賭けてもいい。〉
「賭けんでいい。」
〈負けるからか?〉
「うるさい。黙れ。」
虎徹はククッと笑うと、するりと戸の隙間を抜けて夜の闇へ消えていった。
静寂。
惟成の手が几帳へ伸びる。
だが――
止まった。
「…………。」
そして小さく息を吐く。
「写経の続きをするか。」
そう呟くと、惟成は再び文机へ向かった。




