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第248話 頑固者

やがて惟成がふと真顔になった。


「今更だが。」


「え?」


「なんでお前はそんな格好をしている?」


紗世はきょとんとした。


「馬に乗るため。」


「馬?」


「うん。」


「お前、馬に乗ってきたのか!?」


「そうだよ!」


惟成の目が見開かれる。


「お前、馬なんて乗れなかっただろう!?」


「だから練習したんじゃない。」


「練習?」


「一人で乗れるようになって、長旅もできるようになって、それから来たの。」


惟成は呆然とする。


「誰が教えた?」


紗世は満面の笑みを浮かべた。


「父上!」


惟成の表情が固まった。


「検非違使尉様が……?」


「うん!」


紗世は嬉しそうに頷く。


そして、その瞬間のことを思い出したように笑った。


「父上、すっごく驚いてたよ。」


「……だろうな。」


惟成は遠い目をした。





────昨年、惟成の文が届いた日


我を待つ 契りは捨てて咲く花の

匂ふ行く末 祈るのみかな


「待つな。幸せになれ。」


惟成から届いた文を握りしめたまま、紗世は父・兼成を見た。


その瞳には、これまで見せたことのない強い決意が宿っていた。


「父上。お願いがあります。」


兼成は嫌な予感を覚えながら娘を見た。


「……なんだ。」


「私に、馬の乗り方を教えてください。」


「なんだと!?」


兼成は思わず立ち上がった。


「馬だと!? 牛車があるであろう!」


「牛車は遅すぎです!」


「遅いも何も、馬に乗ってどうするつもりだ!」


紗世は迷わなかった。


「讃岐まで、惟成に会いに行きます。」


────静寂。


兼成は娘を見た。


紗世も真顔で父を見ている。


数拍の沈黙の後。


「はあああああああああ!!!?」


屋敷中に響くような絶叫だった。


「待て待て待て待て待て! お前、讃岐がどこにあるか分かっておるのか!?」


「瀬戸内海を渡った先の島国でしょう?」


「和泉国とは比べ物にならんほど遠いのだぞ!」


「存じてます。」


「存じてますじゃない!」


兼成は頭を抱えた。


「だいたい、若い姫君が一人で旅など!」


「一人じゃありません。雪丸たちも連れて行きます。」


「そういう問題ではない!」


「じゃあ何が問題なんですか!」


紗世も負けじと身を乗り出した。


「危険だからだ! 馬など落馬したらどうする!」


「だから教えてくださいって言ってるんでしょう!」


「駄目だ!」


「なんでそう一方的に駄目なんですか!」


「駄目なものは駄目だ!」


「父上はいつも『相手の話を最後まで聞きなさい』って言うくせに!」


「ぐっ……!」


兼成が言葉に詰まる。


紗世はさらに攻めた。


「そんなに言うなら家出します!」


「なっ!?」


「父上のいないところで勝手に馬の練習します!」


「うぐっ!!」


「どうして私の気持ちを分かってくれないのお! 父上の馬鹿! 嫌い!」


ぽろぽろと涙がこぼれる。


「惟成が帰ってこなかったらどうするの! 私、後悔したまま生きていくの嫌だもん!」


兼成は完全に押されていた。


そして紗世はとどめを刺した。


「うっ……うう……うわあああん!!」


「ひ、姫ええええええーーーー!!」


兼成の悲鳴が邸中に響いた。



──回想終了


「……って感じで、父上を怒って、脅して、泣いて落としたの。」


紗世は胸を張って言った。


惟成はしばらく無言だった。


そして静かに呟く。


「……検非違使尉様が気の毒だな。」


「なんで!?」


「どう考えても被害者だからだ。」


「違うもん。父上が頑固だったんだもん。」


「頑固だったのはお前だ。」


「うっ。」


紗世が言葉に詰まる。


惟成は思わず笑った。


「しかし、本当に馬を覚えたのか。」


「覚えたよ!」


「信じられん。」


「失礼な!」


紗世は頬を膨らませた。


「父上が本気で教えてくれたし、源氏の君も、頭中将様も、陰陽頭様も教えてくれたんだから。」


「頭中将様は面白がっていただけだろう。」


「……うん。」


素直に認めた。


初めて男装姿で馬に乗った時など、頭中将は酸欠になるほど笑い転げていた。


「水干姿の和泉殿など百年に一度の珍事だ!」


と言われたことを思い出し、少し腹が立った。


「でも、みんな惟成のこと心配してたよ。」


紗世は少し真面目な顔になった。


「源氏の君も、頭中将様も、惟光様も。」


惟成は黙って聞いていた。


「最後、惟成とちゃんと話せなかったでしょう? 陰陽頭様も父上も、拝命式で姿を見たのが最後だったって。」


「……そうか。」


「だから私が会いに行くって言ったら、最初は反対したけど、最後はみんな協力してくれたの。」


都から讃岐までの道程。


泊まる場所。


休憩場所。


渡し船の手配。


男装用の衣装。


そのほとんどが周囲の大人たちの助けによるものだった。


「みんな、惟成の様子を知りたかったんだと思う。」


惟成は小さく目を伏せた。


「そうだったか。」


「うん。」


しばし静寂が落ちる。


離れの外では波の音が聞こえていた。


やがて惟成が口を開く。


「しかし、馬での長旅は初めてだったし、疲れただろう。」


「うーん。」


紗世は少し考えた。


「半分以上は川を下ったり船だったりしたから、思ったより馬には乗らなかったかな。」


「そうか。」


「でも、お尻は痛かった。」


「だろうな。」


「惟成、笑った!」


「いや、笑うだろう。」


紗世は不満そうに唇を尖らせた。


その様子に惟成の口元が緩む。


都にいた頃と何も変わらない。


そう思った瞬間だった。


「あ、そうだ。」


紗世が思い出したように言った。


「私、惟成と一緒に帰るから。」


「……は?」


惟成の動きが止まった。


「惟成と一緒に帰る。」


「いや、聞こえなかったわけではない。」


「じゃあ何?」


「意味が分からん。」


紗世はきょとんとした。


「だから、一緒に帰るの。」


「どこへ。」


「都。」


「いつ。」


「惟成が帰る時。」


惟成は頭を抱えた。


「海賊討伐がいつ終わるか分からんのだぞ。」


「うん。」


「半年かもしれん。」


「うん。」


「一年かもしれん。」


「うん。」


「数年かかるかもしれん。」


「だからこそでしょ。」


紗世は真顔で言った。


「数年も都で待つなんて無理だもん。」


「無理だもん、ではない。」


「無理なものは無理。」


「お前な……。」


惟成は深くため息を吐いた。


しかし紗世は全く引く気配がない。


「だってまた離れるんだよ?」


「そうだ。」


「嫌だ。」


「紗世。」


「嫌。」


即答だった。


惟成は額を押さえた。


「検非違使尉様は許したのか。」


「ううん。」


「やっぱりな。」


「生きてるの確認したら帰るって言った。」


「それが普通だ。」


「でも、ここまで来たらこっちのもんだもん。」


「全然こっちのものではない。」


紗世は腕を組んだ。


「じゃあ働く。」


「何?」


「どこかのお邸の使用人になる。」


「は?」


「料理できるし。」


「待て。」


「男装してるから大丈夫。」


「待て。」


「使用人募集してるお邸探す。」


「待て。」


「そしたら――」


「待て!!」


惟成は思わず紗世の襟を掴んだ。


紗世がびくっとする。


「お前は讃岐の男を知らん。」


「え?」


「海の民だぞ。」


「うん。」


「これからの季節、海へ入る。」


「うん。」


「衣を脱ぐ。」


「……。」


「お前の正体など一日でばれる。」


「…………。」


「だから駄目だ。」


紗世の顔がみるみる青くなる。


そして次の瞬間。


「いやあああああ!!」


惟成は思わず耳を押さえた。


「だから帰れ。」


「嫌だ!」


「帰れ。」


「嫌だ!」


「帰れ。」


「嫌だもん!!」


とうとう紗世が惟成に抱きついた。


「もう離れたくないんだもん!……うぇええ……ん……うっ…うぇ……」


惟成はしばらく黙った。


波の音だけが聞こえる。


やがて大きく息を吐く。


「……分かった。」


「え?」


「俺の専属使用人として、この離れに住め。」


紗世が固まる。


「……いいの?」


「俺の目の届かない場所へ放り出すよりはましだ。」


次の瞬間。


「惟成ぃぃぃ!!」


紗世が勢いよく抱きついた。


「やっぱり好きぃぃぃ!!」


「痛い痛い。」


「好きぃぃぃ!!」


「分かったから落ち着け。」


しかし紗世は離れない。


惟成は苦笑した。


そして、ふと思い出したように言う。


「……おい。」


「ん?」


「分かっているのか。」


「何を?」


「この離れに住むんだぞ。」


「うん!」


「俺と一緒に。」


「うん!」


「寝起きするんだぞ。」


紗世が固まった。


数秒後。


顔が真っ赤になる。


「あっ……。」


惟成は吹き出した。


「今気付いたのか。」


「だっ……だって……。」


「安心しろ。」


惟成は笑いながら言った。


「変なことはせん。」


その言葉に紗世はようやく安堵した。


「あ、そうだ!」


紗世は荷物の中を探り始める。


一通の文を取り出した。


「父上から。」


惟成の顔が少し引きつる。


「嫌な予感しかしない。」


「まず渡せって言われた。」


惟成は文を受け取った。


開く。


読む。


沈黙。


「……なるほど。」


「何て書いてあるの?」


惟成は無言で文を差し出した。


紗世が覗き込む。


そこには大きな文字で、


『姫の懐妊は許さん』


とだけ書かれていた。


「ばっ……!!」


紗世の顔が爆発したように赤くなる。


惟成は静かに天井を仰いだ。


(……拷問か。)


そう思わずにはいられなかった。



すると、


「にゃあ。」


聞き覚えのある鳴き声がした。


「そうだった!」


紗世が顔を上げる。


「虎徹! 虎徹、いるの? おいで。」


辺りを見回した紗世の声に応えるように、積み上げられた荷の隙間から白猫がひょこりと顔を出した。


「虎徹!」


紗世は嬉しそうに抱き上げる。


虎徹は当然のような顔で紗世の腕の中に収まった。


「実は……。」


紗世が気まずそうに笑った。


「虎徹がついて来ちゃってて……気付いた時には、もうだいぶ都を離れちゃってたから、そのまま連れて来るしかなかったの。」


惟成は虎徹を見つめた。


虎徹もまた、じっと惟成を見返している。


(……むしろ、虎徹がいてくれたなら紗世の身は安全だな。)


そんな惟成の考えを見透かしたように、虎徹は目を細め、ゆっくりと尻尾を揺らした。


「ねえ、惟成。」


「なんだ。」


「虎徹、まずいかな?ばれたりしない?」


「問題ない。」


惟成は即答した。


「ここ一帯は港町だ。魚を狙った野良猫も多い。たまにこの離れへ迷い込んで来る猫もいる。」


「本当!?」


「ああ。」


紗世の顔がぱっと明るくなる。


「やった。良かったね、虎徹。」


「にゃあ。」


満足そうに鳴く虎徹を見て、惟成は小さく笑った。


こうして、惟成の離れには新たな住人が増えた。


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