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第247話 紗吉

───五月・備前某所


四人の騎馬の一行が、賑わう備前の港で足を止めた。


先頭にいるのは、四条邸の古参の使用人・雪丸である。


「紗吉、馬はここまでだ。ここから先は船で讃岐へ渡る。」


雪丸が振り返り、最後尾の少年へ声をかけた。


「はい。」


少年は馬上から瀬戸内海を見つめた。


穏やかな海の向こうに霞む島影。


その先に讃岐がある。


(ここを渡れば……。)


少年は軽やかに馬から降りた。


胸いっぱいに潮風を吸い込む。


都よりも暖かい空気。


潮の香り。


見たことのない海。


自然と口元が緩む。


「よし、行こう。」


少年の瞳は真っ直ぐ讃岐を見据えていた。




───讃岐・本営


「源様、都より遣いの者がお見えです。」


執務中だった惟成は顔を上げた。


「都から?」


眉がわずかに寄る。


(なんだ。わざわざ人を寄越すほどの急用か。)


すると取次の男が続けた。


「四条邸の遣いと名乗っております。」



───ガタン!!



惟成が勢いよく立ち上がった。


「今、四条邸と言ったか?」


「は、はい。」


返事を聞くより早く、惟成は部屋を飛び出していた。


(四条邸から遣い?


なぜ文ではなく人を?


まさか――紗世に何かあったのか。)


客間へ向かう足が自然と速くなる。


息を整える暇もなく簾を開くと、四人の使者が座っていた。


そして一番手前には、見慣れた顔がある。


「雪丸。」


「惟成様。」


雪丸は深々と頭を下げた。


「お久しゅうございます。」


「突然どうした。」


「え?」


雪丸がきょとんとする。


「五月に入ったら讃岐へ参ると文をお送りしたはずですが……。」


「あ……。」


惟成は一瞬言葉に詰まった。


読んでいない。


いや、正確には読まないようにしていた。


私的な文には目を通さない。


そう決めていたのだ。


「忙しくてな。後回しになっていた。」


「そうでしたか。」


雪丸は苦笑した。


「ええと……実は四条邸の使用人の一人に伊予出身の者がおりまして。身内の体調が悪くなったため一度帰郷することになったのです。」


「ふむ。」


「そこまで行くならと、惟成様のお父上・惟光様から荷を預かりまして。」


「そうだったか。」


惟成は小さく息を吐いた。


少なくとも急報ではない。


それだけで胸の重みが少し軽くなる。


だが、改めて部屋を見渡し、首を傾げた。


「……荷が多くないか?」


四人とも大きな荷を抱えている。


父からの届け物にしては異様な量だった。


「ああ、それは。」


雪丸が困ったように笑う。


「惟成様へ荷を届けると申しましたら、当家の殿や源氏の君様だけでなく、頭中将様や陰陽頭様まで次々と預けてこられまして。」


「……なるほど。」


容易に想像できた。


惟成は思わず遠い目になる。


(相変わらずだな……。)


ふと、胸の奥が疼く。


(紗世は……どうしているだろう。)


聞きたい。


だが聞きたくない。


聞けばあの頃を思い出してしまう。


惟成はその感情を押し込めた。


「ありがとう。遠路ご苦労だった。」


そう言って改めて四人を見る。


そして視線が止まった。


「……?」


一番端。


見覚えのない少年。


惟成は静かに雪丸へ視線を向けた。


「雪丸。」


「は、はい。」


「お前と隣の二人は知っている。」


雪丸の肩がぴくりと動く。


「だが、一番端の者は見覚えがない。」


「えっ。」


「誰だ?」


雪丸の顔が引きつった。


「ええと、その……。」


明らかに様子がおかしい。


惟成の目が細くなる。


「名は。」


「さ、紗吉と申します。」


少年が深々と頭を下げた。


「……紗吉。」


惟成はその名を反芻した。


違和感。


何かがおかしい。


だが、まだ分からない。


「そうか。」


惟成はそれ以上追及しなかった。


「荷を私の離れまで運んでくれ。」


「承知しました。」



離れへ荷を運び終えた頃には、外は夕暮れに染まっていた。


惟成は雪丸へ向き直る。


「雪丸。」


「はい。」


「すまないが、この紗吉だけ少し借りる。」


「へぁっ?」


雪丸が素っ頓狂な声を上げた。


惟成の眉がわずかに上がる。


「何か問題でもあるのか。」


「い、いいえ!」


雪丸は慌てて首を振った。


「まったくございません!」


その慌てぶりに、惟成の違和感はさらに強くなる。


だが表には出さない。


「お前たちは今夜は讃岐に泊まるのだろう。」


「はい。讃岐守様に話は通してある、と殿が。」


「そうか。」


惟成は頷いた。


「ならば先に行け。紗吉は後で私が送る。」


「かしこまりました。」


雪丸は一礼すると、逃げるような勢いで部屋を出ていった。


妻戸が閉まる。


静寂。


離れの中には惟成と紗吉、二人だけが残された。


惟成はゆっくりと少年へ視線を向けた。




波の音と風の音。



静寂が離れを包む。



その中で、惟成がゆっくりと口を開いた。




「───紗世。」




低く、柔らかな声だった。


紗吉──紗世の目から、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。


唇を震わせながら惟成を見た。


日に焼けた肌。


更に背が伸び、逞しくなった身体。


けれど、紗世へ向けられる優しい眼差しも声も変わっていなかった。


「……ごっ……ごめ……んっ!」


涙で声が途切れる。


惟成は静かに首を傾げた。


「大嫌いなんて……っ……言って、ごめんなさい……。」


紗世は次々と流れ落ちる涙を拭いながら続ける。


「大嫌いなんて嘘……。大好き……っ。大好きなの……惟成が……好き……。」


俯いたまま肩を震わせる。


惟成はしばらく黙っていた。


そして静かに呼ぶ。



「紗世。」



紗世が顔を上げる。



「おいで。」



惟成が小さく両腕を広げた。


その瞬間だった。


ガバッ!!


紗世は飛びつくように惟成へ抱きついた。


「うっ……うっ…うぁぁぁんっ……会いたかったぁ……!」


「ああ。」


「良かった……生きてた……!生きてた!! 本当に良かったぁ……!」


「そう簡単には死なん。」


紗世を抱き締める腕に自然と力が入る。


「大嫌いなんて嘘だから! 何があっても好きだから!」


「わざわざ、それを言いに来たのか?」


「一番大事でしょおおお!!」


惟成の口元が緩む。


「ははっ……そうだな。」


紗世は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。


惟成はその頬に手を添え、指で涙を拭う。


「涙で顔が酷いぞ。」


「誰のせいだと思ってんのおおお!!」


「すまん、すまん。」


「すまんは一回でいいいい!!!」


「すまん。」


「よし!!」


思わず惟成が笑う。


その笑い声に、紗世も少しだけ笑った。


惟成はもう一度紗世を抱き締める。


そして、髪を撫でながら静かに言った。


「お前はもう、次へ進んでいると思った……。」


「え……?」


「いつ戻るか分からない俺を待たせる訳にはいかないと……検非違使尉様にも、お前に見合う男を探してくれと言ったからな……。」


紗世は黙って惟成を見つめた。


「もう今頃は、他の男が通っているのだろうと……。」


「惟成は?」


「ん?」


「他に好きな子、できたの?」


惟成は即座に答えた。


「できるわけが無い。」


紗世の目から再び涙が零れ落ちた。


「じゃあ、私も一緒。」


そう言って惟成を抱き締める。


「できるわけないでしょ。」


肩に顔を埋めたまま続ける。


「離れてからも、ずっとずっと惟成のこと考えてた。でも今回は考えるの辛かった……。」


声が震える。


「考える度に、死んじゃってたらどうしようって不安が凄かったの……。」


ぽろぽろと涙が零れ落ちる。


「もし、もし死んじゃってたら……最後に言った言葉が大嫌いなんて……って思ったら……すごく怖かった……。」


惟成の手が再び紗世の頬に触れた。


「だから決めてたの。」


紗世は涙を拭いながら言う。


「会いに行ったら絶対に最初に大好きって伝えようって。何があっても好き──」


その言葉は最後まで続かなかった。


惟成が紗世の頬を包み込む。


そして静かに顔を近付けた。


唇が重なる。


優しく触れるだけの口付け。


だが、それだけでは終わらなかった。


離れたと思った瞬間、再び唇が重なる。


今度はもっと深く。


離れていた時間を埋めるように。


言葉では足りない想いを伝えるように。


「……んっ……」


紗世の指が惟成の衣をぎゅっと掴む。


惟成もまた、紗世を引き寄せた。


強く、深い口付け。


離れていた日々を埋めるような熱を帯びた口付けだった。


「……っ……はぁ……。」


ようやく唇が離れる。


互いの吐息だけが静かな離れに響いた。


惟成は紗世の肩に額を預ける。


「忘れられるわけがない……。」


掠れた声だった。


「そうだよ……。」


紗世も泣き笑いのような顔になる。


「忘れられるわけないし、待つな、なんて言われたって無理だから。諦めて。」


「ははっ。」


惟成が声を上げて笑う。


それは追捕使でも武官でもない。


紗世の前でだけ見せる十六歳の少年の笑顔だった。


「そうだな。」


しばらく互いの温もりを確かめるように抱き合っていた。


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