第246話 芽生え
───塩飽諸島・根城
洞窟の中には重苦しい空気が流れていた。
壁際には松明が灯され、その橙色の光が海賊達の顔を照らしている。
普段なら酒を飲みながら騒ぐ者もいる。
だが今日は違った。
誰もが押し黙り、中央に座る黒鷲を見ていた。
やがて若い海賊の一人が口を開く。
「頭領、本当に良かったんですか。捕虜ですよ。薬一つで二人も返したじゃねぇですか。」
それをきっかけに周囲からも声が上がる。
「俺もそう思います。」
「捕虜は貴重な労働力だ。」
「しかも相手は追捕使でしょう。」
「利用されてるだけじゃねぇですか。」
不満が広がる。
黒鷲は止めなかった。
全員の言葉を最後まで聞いている。
やがて声が収まると、黒鷲は静かに口を開いた。
「終わったか。なら今度は儂が話す。」
洞窟が静まり返る。
誰も口を挟まない。
黒鷲は壁にもたれながら、一人一人を見回した。
「お前らに聞く。ここにいる者で、好き好んで海賊になった者が何人いる。」
誰も答えない。
黒鷲は鼻で笑った。
「おらんだろう。漁だけで食えなくなった者、税が払えなくなった者、家族を養えなくなった者。皆、何かしら事情があった。違うか。」
「……違いません。」
年嵩の海賊が呟いた。
黒鷲は頷く。
「ならば、お前らも分かるはずだ。」
そう言って洞窟の奥へ視線を向けた。
その先には誰もいない。
だが皆、その意味を理解した。
黒鷲の妻がいる。
「儂にも事情があった。十一年前、息子を病で失った。そして今は妻が同じ病に苦しんでいる。儂は二度も同じものを失いたくない。だから薬を手に入れた。」
若い海賊達の表情が変わる。
誰も何も言えない。
黒鷲は拳を握った。
「儂は頭領だ。だからお前らの飯も守る。船も守る。家族も守る。だが、それと同じように儂にも守りたいものがある。」
長い沈黙が流れた。
先ほどまで不満を口にしていた若い海賊も、今は視線を落としている。
やがて側近が口を開く。
「頭領は、あの追捕使を信用しているのですか。」
黒鷲は少し考えた後、小さく笑った。
「信用などしておらん。だが面白い男だ。」
「面白い?」
「ああ。海賊の事情を調べる追捕使など見たことがない。重税のことまで調べ上げ、捕虜を奪い返すのではなく話し合おうなどと言い出した。馬鹿かもしれん。だが少なくとも今までの役人とは違う。」
洞窟の空気が少しだけ緩んだ。
黒鷲はゆっくり立ち上がる。
「次の交渉にも応じる。」
海賊達が顔を上げた。
「ただし、次は儂らの話を聞かせる。捕虜を返して終わりではない。儂らがなぜ海賊になったのか、なぜここまで追い詰められたのか。その答えを若造に突きつけてやる。」
松明の火が揺れる。
誰も反対しなかった。
洞窟の外では、夜の波が静かに岩を叩いていた。
───志度津
二度目の交渉の日。
惟成は前回と同じく、小舟一艘で志度津へ向かっていた。
空は晴れている。
波も穏やかだった。
だが惟成の胸中は穏やかではない。
今回は捕虜の解放だけが目的ではなかった。
海賊。
重税。
そして海賊船。
それらの裏にあるものを確かめたいと思っていた。
やがて一艘の小舟が近付いてくる。
「追捕使の源惟成か。」
「そうだ。」
「着いてこい。」
前回と同じ男だった。
二艘の小舟は島影へ入り、小さな入り江へと向かう。
上陸した惟成は洞窟へ案内された。
ひんやりとした空気の中を進む。
奥へ進むにつれ松明の灯りが見えてきた。
その先には黒鷲がいた。
岩に腰を下ろし、腕を組んでいる。
惟成の姿を認めると、黒鷲は口元を歪めた。
「よく来たな、若造。普通の追捕使なら兵を連れて攻めて来そうなものだが、お前は本当に一人で来る。」
「お前も一人で出て来ている。」
「違いない。」
黒鷲は笑った。
前回よりも空気は柔らかい。
だが互いに警戒を解いたわけではなかった。
惟成は黒鷲の向かいに腰を下ろした。
しばらく沈黙が流れる。
先に口を開いたのは黒鷲だった。
「今日は何を持って来た。薬か、それともまた面白い話か。」
「話だ。」
「ほう。」
惟成は黒鷲を見据えた。
「前回から考えていた。お前達は重税で生活が立ち行かなくなった民だ。それは理解できる。」
「そういう者は多いな。」
「だが、それだけでは説明がつかない。」
黒鷲の目が僅かに細くなる。
惟成は続けた。
「船だ。」
洞窟の空気が変わった。
「お前達の船は漁船ではない。漁師や船夫が生活に困ったからといって、あれほどの船を突然持てるはずがない。」
黒鷲は黙っている。
「誰が用意した。」
松明の火が揺れる。
水滴が落ちる音だけが響いた。
やがて黒鷲は鼻で笑った。
「そこまで調べたか。」
「やはり居るのだな。」
「ああ。」
黒鷲はあっさり認めた。
「居る。」
「誰だ。」
「言えん。」
「なぜ。」
黒鷲は惟成を真っ直ぐ見た。
「言えば儂らが死ぬからだ。」
惟成は表情を変えなかった。
だが、その言葉の重みは感じていた。
「それほどの相手か。」
「そうだ。お前が思っているより遥かにな。」
黒鷲は小さく息を吐いた。
「若造、お前は海賊を見ている。しかし儂らは末端だ。本当に肥えている連中は別にいる。」
「税で民を追い詰めた者達か。」
黒鷲の目が見開いた。
「……そこまで辿り着いていたか。」
「確証はまだ無い。」
「だが疑っている。」
「そうだ。」
黒鷲はしばらく黙っていた。
やがて苦笑する。
「面白い男だ。今までの役人なら海賊を斬って終わりだった。」
「それで終わらなかったから、お前達は十年も居る。」
黒鷲は声を上げて笑った。
「違いない。」
笑いが収まると、惟成は話を戻した。
「捕虜はどうする。」
黒鷲は腕を組んだまま答えない。
長い沈黙が流れる。
やがて洞窟の奥へ視線を向けた。
「連れて来い。」
側近が頭を下げて奥へ消える。
しばらくして二人の男が現れた。
都から来た武官。
そして讃岐の武官。
二人とも痩せてはいたが無事だった。
「源様!」
「ご無事でしたか!」
惟成は安堵の息を吐いた。
これで四人全員の生存が確認できた。
黒鷲は二人を見ながら言う。
「返してやる。」
惟成が黒鷲を見る。
「条件は。」
「ない。」
惟成は眉を顰めた。
黒鷲は肩を竦める。
「前回、薬は貰った。」
「それだけではないだろう。」
「まあな。」
黒鷲は立ち上がった。
「お前は本気で調べるつもりらしい。」
「そのつもりだ。」
「なら捕虜は返す。」
「なぜだ。」
黒鷲は少し考えた後、静かに言った。
「儂らは海賊だ。だが好きで海賊になった訳ではない。捕虜を抱えたままでは、お前も儂らも前へ進めん。」
惟成は黙って聞いていた。
黒鷲は続ける。
「だから返す。その代わり、お前も逃げるな。」
「逃げん。」
「重税の件も。」
「逃げん。」
「海賊船を流した奴の件も。」
「逃げん。」
黒鷲は満足そうに笑った。
「なら良い。」
惟成は静かに頭を下げる。
「感謝する。」
その言葉に黒鷲は豪快に笑った。
「海賊に感謝する追捕使など、やはりお前は変わり者だ。」
洞窟の外では波の音が響いている。
捕虜は全員戻った。
だが惟成には分かっていた。
海賊問題は終わっていない。
むしろ今、ようやく本当の敵へ続く道が見え始めたのだと。




