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第245話 揺れる

───とある漁村


夜だった。


村の奥にある小さな小屋。


室内に置かれた灯火が、ゆらゆらと揺れている。


黒鷲は入口の前で足を止めた。


手には布に包まれた小さな薬包。


惟成から受け取った薬だった。


しばらく無言で立ち尽くした後、ゆっくりと中へ入る。


部屋の奥には女が横になっていた。


顔色は悪い。


頬は痩せ、肩も細くなっている。


だが黒鷲が入ってきたことに気付くと、小さく笑った。


「おかえりなさい。」


「起きていたのか。」


「あなたが帰ってきた気配がしましたから。」


女はそう言って身体を起こそうとする。


黒鷲は慌てて肩を支えた。


「無理をするな。」


「大丈夫です。」


そう言いながらも咳が出る。


黒鷲は顔をしかめた。


女はそんな黒鷲を見て苦笑する。


「また怖い顔をしていますよ。」


「……しておらん。」


「しています。」


女は優しく笑った。


その笑顔に、黒鷲は視線を逸らした。


「薬だ。」


そう言って包みを差し出す。


女が目を見開いた。


「薬……?」


「ああ。」


「手に入ったのですか?」


「まあな。」


黒鷲はそれ以上説明しなかった。


惟成との取引も。


捕虜を二人返したことも。


今は話す気になれなかった。


女は薬を見つめる。


そして少しだけ表情を曇らせた。


「高かったでしょう。」


「気にするな。」


「また無茶をしたのではありませんか。」


「しておらん。」


「嘘です。」


黒鷲は答えなかった。


女はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。


「あなたは昔から嘘が下手です。」


黒鷲は鼻を鳴らした。


女は薬を受け取る。


その手は少し震えていた。


黒鷲は湯を差し出した。


女は薬を口へ運ぶ。


ごくり、と飲み込む。


たったそれだけのことだった。


だが黒鷲は、まるで大きな戦が終わったかのような気分だった。


十一年前。


息子を病で失った。


薬が買えなかった。


ただそれだけの理由で。


あの時の小さな身体。


冷たくなっていく手。


泣き崩れる妻。


何もできなかった自分。


今でも夢に見る。


だからこそ、もう二度と同じ思いはしたくなかった。


女は薬を飲み終えると、小さく息を吐いた。


「ありがとう。」


「礼を言われることではない。」


「いいえ。」


女は静かに首を振る。


「ありがとう。」


黒鷲は何も言えなかった。


女は少し困ったように笑う。


「あなた。」


「なんだ。」


「最近、何かありましたか。」


黒鷲の眉が動いた。


「なぜそう思う。」


「昔より優しい顔をするようになりました。」


「馬鹿を言うな。」


「本当です。」


女はそう言って笑う。


黒鷲はため息をついた。


「……変な若造に会っただけだ。」


「若造?」


「ああ。」


黒鷲は灯火を見つめた。


海賊を憎むはずの追捕使。


捕虜を取り返すために刀ではなく言葉を持ってきた男。


海賊の事情を調べ。


重税を調べ。


妻の病まで調べ上げた男。


普通なら気味が悪い。


だが不思議と嫌悪感はなかった。


「変わった男だ。」


黒鷲はぽつりと呟く。


女はその言葉を聞いて微笑んだ。


「あなたがそう言うのなら、本当に変わった方なのでしょうね。」


洞窟の外では波の音が響いていた。


黒鷲は妻の顔を見る。


少しだけ顔色が良く見えた。


本当に薬の効果なのか。


それとも気のせいなのか。


分からない。


だが、今だけは、ほんの少しだけ。


肩の荷が下りた気がしていた。


その夜、黒鷲は久しぶりに長く妻の傍にいた。




───讃岐・本営


二人の捕虜が帰還してから数日が経っていた。


本営では海賊討伐の準備が続いている。


しかし惟成の机の上に積まれているのは軍務の書類ではなかった。


帳簿。


帳簿。


そしてまた帳簿。


「……多いな。」


惟成が小さく呟く。


讃岐国内の租税記録。


港の荷の出入り。


各郡から納められた税の一覧。


ここ十数年分を集めさせた結果だった。


「源様。」


三宅宗平が入ってくる。


「調べて参りました。」


「どうだった。」


「やはり不自然です。」


三宅は一冊の帳簿を差し出した。


惟成は目を通す。


「こちらは阿野郡の記録です。」


「うむ。」


「十二年前から急激に税が増えております。」


惟成は静かに頁をめくった。


確かに増えている。


しかも少しずつではない。


ある年を境に突然だった。


「他の郡は。」


「同様です。」


「ふむ。」


惟成は腕を組んだ。


そこへ経房もやって来た。


「源様、何か分かったか。」


「少しずつ。」


惟成は帳簿を広げた。


「和気殿。この数字をご覧ください。」


経房は身を乗り出す。


「これは。」


「十二年前を境に徴税額が増えております。」


「だが朝廷へ送られた記録は平均並みだったのだろう?」


「ええ。」


惟成は別の帳簿を広げた。


「こちらは朝廷へ送られた数字です。」


経房の顔色が変わる。


「違う。」


「はい。」


「まるで違うではないか。」


讃岐で徴収された額。


朝廷へ報告された額。


その間には大きな差があった。


「これほどの差額を誰かが懐に入れていたと?」


経房の声が低くなる。


「可能性は高いでしょう。」


惟成は冷静だった。


むしろ冷静過ぎるほどだった。


「しかし。」


経房が眉を顰める。


「これだけでは犯人は分からぬ。」


「その通りです。」


惟成は頷く。


「だから更に調べます。」


「まだ何かあるのか。」


「あります。」


惟成は港の記録を広げた。


「私は不思議だったのです。」


「何がだ。」


「税が重くなって十二年。」


惟成は帳簿を指差す。


「海賊が本格的に現れ始めたのは十年前。税も重くなっているのに、わずか二年足らずで、海賊として組織化するのが異様に早い。」


「うむ。」


「海賊がここまで大規模になるには資金が必要です。」


「資金?」


「船です。」


経房は目を見開いた。


惟成は続ける。


「船は高価です。」


「確かに。」


「漁師達が食うにも困る状態で、どうやって海賊船を増やしたのか。」


部屋が静まり返る。


三宅も経房も答えられなかった。


惟成は帳簿を閉じる。


「海賊の背後にいるのは貧しい漁師だけではないかもしれません。」


「なに。」


「誰かが資金を流している可能性があります。」


経房の顔色が変わった。


「それでは。」


「ええ。」


惟成の目が鋭くなる。


「これは単なる海賊問題ではない。」


灯火が揺れる。


誰も言葉を発さない。


惟成は窓の外を見た。


遠くに瀬戸内海が見える。


あの日。


黒鷲は言った。


『今の目の前の生活が変わらなければ困るのだ。』


あの言葉が頭から離れない。


海賊は確かに罪人だ。


だが本当に罪人だけなのだろうか。


惟成は静かに拳を握る。


「海賊を討つだけでは終わらない。」


その声は低かった。


「この国で何が起きているのか、必ず突き止める。」


誰に聞かせるでもなく。


惟成はそう呟いた。

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