第244話 讃岐の縁
───讃岐・本営
「捕虜となっていた船夫と領民が戻ったぞ!」
本営に歓声が上がった。
これまで重苦しい空気に包まれていた者たちの顔にも、ようやく笑みが浮かぶ。
「源様、お疲れ様にございます。」
和気の姫君が惟成のもとへ歩み寄った。
「いえ。」
惟成は静かに首を振る。
「全員の帰還には至りませんでした。申し訳ありません。」
「何をおっしゃいますの!」
姫君は思わず声を上げた。
「二人だけとはいえ、話し合いによって捕虜を帰還させたのですよ?しかも誰一人血を流さずにです。こんなこと、今まで聞いたこともございません。」
惟成は苦笑した。
確かに成果はあった。
しかし、まだ二人が海賊のもとに残されている。
手放しで喜ぶことはできなかった。
周囲では酒や食事が運ばれ、ささやかな宴のような空気が生まれ始めている。
だが惟成はその輪へ加わらず、自らの執務室へ向かった。
今日の報告。
今後の海賊出現予測。
捕虜解放の続き。
讃岐の税収。
領民の生活。
考えるべきことは山ほどある。
文机に向かい、一つずつ書類へ目を通していく。
しばらくして、部屋の外から声がした。
「まあ……もうお仕事に戻っていらっしゃるのですか?」
和気の姫君だった。
「他の方々は捕虜が戻ったと喜び、飲んで食べておりますのに。」
少し呆れたような声だった。
「私は仕事をするために讃岐へ来ておりますので。」
惟成は視線を落としたまま答える。
姫君は小さく息を吐いた。
「……讃岐の重税の件、父上から聞きましたわ。」
惟成が顔を上げる。
「まさか、あれほど他国と違っていたなんて……父も大変な衝撃を受けておりました。」
「和気殿は長く讃岐におられます。税が重いと感じても、他国も同じだと思われるのは当然でしょう。」
惟成は淡々と答えた。
「朝廷へ使いを送り調べさせましたが、朝廷には讃岐の税収が他国とほぼ同じ数字で報告されていました。」
「それでは……。」
「讃岐から朝廷へ税が渡るまでの間に、多く徴収した分を懐へ入れている者がいるのでしょう。」
姫君は目を見開いた。
「そんな……横領ではありませんか。」
「ええ。」
惟成は静かに頷いた。
「しかし私は追捕使です。軍事権は持ちますが、それ以外の権限はありません。」
「……。」
「不正を見つけても、それを正す権限までは持たないのです。朝廷や讃岐守へ報告することしかできません。」
姫君は悔しそうに唇を噛んだ。
「今後、海賊との対話が進めば進むほど、軍事権だけでは対応できぬ問題も増えるでしょう。」
「海賊よりも、不正をしている者たちの方が厄介になるかもしれませんわね。」
「その可能性はあります。」
惟成はため息をついた。
「……源様は朝廷の方なのに、ここまで讃岐のことを考えてくださっているのですね。」
姫君は少し寂しそうに笑った。
「もし、この不正に讃岐の者が関わっていたら……恥ずかしい限りです。」
「まだ分かりません。朝廷側の役人が関わっている可能性もあります。」
姫君はしばらく惟成を見つめていた。
そして静かに尋ねる。
「源様。」
「はい。」
「海賊討伐の任が終われば、都へ戻られるというお気持ちは変わりませんか?」
「ええ。」
惟成は迷わず答えた。
「変わりません。都へ戻ります。」
姫君は一瞬だけ目を伏せた。
「そうですか。」
小さく笑う。
「ここまで讃岐のことを考えてくださっているので、少し期待してしまいました。」
「申し訳ございません。」
「でも。」
姫君は顔を上げた。
「海賊討伐がどうなるか、まだ分かりませんものね。」
悪戯っぽく笑う。
「源様のお考えも、変わるかもしれません。」
そう言い残し、姫君は部屋を後にした。
惟成はしばらく閉じられた戸を見つめていた。
そして再び書類へ視線を落とした。
───その夜
惟成は経房に私的に呼び出された。
「すまぬな、源様。疲れておるだろうに。」
「いえ。」
経房は真剣な眼差しで惟成を見た。
「源様。」
「はい。」
「今後、讃岐の政に携わってはくれぬか。」
惟成は一瞬だけ眉を動かした。
「私は追捕使です。軍事権は持ちますが、それ以外の権限はありません。」
「讃岐国の豪族と姻戚となれば話は変わる。」
惟成の視線がわずかに揺れた。
「……姻戚、ですか。」
「率直に言おう。」
経房は言った。
「私は源様に、このまま讃岐へ残っていただきたい。」
惟成は黙っている。
「追捕使としてではない。源惟成という一人の男としてだ。」
静寂が落ちた。
「源様は当家の姫が気に入らぬか。」
「そのようなことはありません。」
惟成は静かに答えた。
「姫君は領民思いで行動力があり、誠実なお方です。」
「そうか。」
経房は頷く。
「姫も源様を慕っておる。」
そして少し間を置いた。
「都に想う相手がおるそうだな。」
惟成の肩がわずかに動いた。
春の日の庭。
柔らかな陽射し。
風に揺れる髪。
笑った顔。
自分の名を呼ぶ声。
もう二度と会えぬかもしれない。
そう思いながら讃岐へ下った日のことを思い出す。
「私には不思議なのだ。」
経房が静かに言った。
「何がでしょう。」
「都へ戻れる保証のない任を受けたことだ。」
惟成は答えなかった。
「本当に何よりも大切な相手ならば、離れたくはないはずだ。」
経房は真っ直ぐ惟成を見る。
「だから私は思ってしまうのだ。源様はその相手を忘れたいのではないか、と。」
惟成は目を伏せた。
答えはない。
海賊。
捕虜。
重税。
讃岐。
都。
全てが絡み合っていた。
「私はまだ、源様が讃岐に残ってくださる可能性はあると思っている。」
経房は続けた。
「当家の姫とのこと、一度真剣に考えてはくれぬか。」
長い沈黙の後。
惟成は静かに口を開いた。
「……今は、お答えできません。」
経房は小さく頷いた。
「そうであろうな。」
「ですが、お気持ちはありがたく受け取らせていただきます。」
「それで十分だ。」
その夜。
自室へ戻った惟成は、しばらく眠ることができなかった。




