第240話 敗北の痛み
惟成が敗北を知った囮作戦から、半月ほどが過ぎていた。
海へ飛び込んだ十二名についても、その後少しずつ情報が集まってきている。
生還五名。
海賊の捕虜となった者四名。
死者二名。
行方不明一名。
当初考えていたよりは多くが生き延びていた。
だが、惟成の心が軽くなることはなかった。
行方不明者も、おそらくは――。
そう考えてしまうからだ。
三名。
自分の判断で失われた命。
その重みは消えなかった。
惟成は三人の家族のもとへ足を運び、頭を下げた。
だが誰一人として惟成を責めなかった。
「どうかお顔をお上げくださいませ、追捕使様。あの人はずっと海賊を討つことを悲願としておりました。そのお役に立てたのです。何を悲しむことがございましょう。」
別の家では、
「あいつは毎日海賊の話ばかりしておりました。源様が来られてからは、本当に嬉しそうだったのです。」
そう言われた。
また別の家でも、
「どうか海賊を討ってください。それがあの人の望みです。」
と涙ながらに頼まれた。
誰も惟成を責めない。
だからこそ苦しかった。
家族達の言葉を聞きながら、惟成の脳裏にはふと紗世の顔が浮かぶ。
もし……もし失われたのが紗世だったなら。
そう考えた瞬間、胸の奥が重く沈んだ。
大切な人を失う痛み。
それを背負わせてしまったのだ。
惟成は初めて痛感していた。
武官とは、人の命を預かる仕事なのだと。
───
「源様。」
柔らかな声が響く。
惟成は海図から目を離さないまま答えた。
「どうされましたか。」
和気の姫君だった。
「少しお休みくださいませ。」
惟成は返事をしない。
姫君は困ったように眉を寄せた。
「もともと働き過ぎだと申しておりましたが、ここ最近は異常ですわ。」
「大丈夫です。」
「大丈夫なわけがございません!」
思わず声が大きくなる。
「休むことだけでなく、お食事まで疎かになさっているではありませんか。」
惟成は小さく息を吐いた。
そして静かに言う。
「私の判断が、人の生死を分けるのです。」
姫君は言葉を失った。
惟成は視線を海図へ戻す。
「私は一度、大きな敗戦を喫しております。同じ過ちは繰り返せません。」
「そうは申しましても……。」
「お心遣い、痛み入ります。」
それは会話を終わらせる言葉だった。
だが姫君は引かなかった。
「少しは弱みを見せても良いではありませんか。」
惟成の手が止まる。
「私では、弱みを見せられませんか。」
静かな問いだった。
惟成は答えられない。
姫君は続ける。
「都に想う方がおられることは存じております。」
その言葉に惟成の表情がわずかに動いた。
「ですが、その方はここにはおられません。」
姫君は真っ直ぐ惟成を見つめる。
「お一人で全てを抱え込む必要はございません。」
しばし沈黙が落ちる。
やがて惟成は目を伏せた。
「……ありがとうございます。」
それだけだった。
姫君は少しだけ寂しそうに微笑む。
「でしたら、せめて今日はきちんとお食事を召し上がってくださいませ。」
惟成は苦笑した。
「善処します。」
「善処ではなく、お約束くださいませ。」
久しぶりに見た惟成の表情だった。
姫君は少しだけ安心したように笑う。
そして一礼すると部屋を後にした。
静けさが戻る。
惟成は脇息へ肘を預け、ゆっくりと天井を見上げた。
頭に浮かぶのは海図ではない。
都に残してきた少女の顔だった。
讃岐へ来てから、どれほどの時が過ぎただろう。
会いたい。
ふと、そんな言葉が胸を過る。
だが惟成は静かに目を閉じる。
突き放した自分にはもう、その資格はない──
そう自分に言い聞かせた。
───讃岐・某所
入り江には大小様々な船が繋がれ、海賊達が忙しなく動き回っていた。
荷を運ぶ者。
奪った荷の仕分けをする者。
船を修理する者。
遠目に見れば、どこにでもある港の光景と変わらない。
その中には、先の囮作戦で海賊の捕虜となった四人の姿もあった。
俵を担ぎながら、都から来た武官がぽつりと呟く。
「……なんだか、捕虜になったという気がせんな。」
隣を歩く船夫が苦笑した。
「ああ。こうして働かされはするが、飯は出るし、寝る場所もある。思っていたほど酷い扱いではないな。」
「殴られもせぬしな。」
讃岐の武官も言う。
四人とも同じような扱いだった。
自由は無い。
だが必要以上に虐げられているわけでもない。
領民の男が周囲を見回した。
「海賊というから、もっと恐ろしい連中だと思っていた。」
「私もだ。」
都の武官が頷く。
「だが、よく見れば普段は漁師や船夫ばかりだな。」
しばし沈黙が落ちた。
荷を運ぶ海賊達の姿を見ながら、船夫が口を開く。
「……そう言われれば、皆どこにでもいそうな者達ばかりだ。」
「源様が以前、私に尋ねたことがある。」
都の武官が言った。
「海賊が海賊になった理由は何だと思うか、と。」
三人が顔を向ける。
「源様が?」
「ああ。」
都の武官は小さく頷いた。
「あの方は強い。しかし無駄な争いは好まぬ。」
海風が吹き抜ける。
「海賊を討っても、次から次へと海賊になる者が現れれば終わりがない。だから、なぜ海賊が現れたのかも調べねばならぬと仰っていた。」
領民の男が唸る。
「……そういう見方もあるのか。」
「私も当時はよく分からなかった。」
都の武官は遠くの海を見た。
「だが今なら少しだけ分かる気がする。」
再び沈黙。
やがて船夫が苦笑した。
「源様なら、この状況をどう見るだろうな。」
「さあな。」
讃岐の武官も笑う。
「だが、何かしら考えるだろう。」
「あの方はそういう人だ。」
四人は顔を見合わせた。
そして再び荷を担ぐ。
捕虜であることに変わりはない。
だが、この場所で見聞きしたことは、彼らの中で少しずつ何かを変え始めていた。
───讃岐・本営
部屋の中央には海図が広げられていた。
惟成を囲むように武官達が座している。
静まり返った空気の中、惟成が口を開いた。
「捕虜となった四名の奪還を行う。」
その一言に全員の視線が集まる。
惟成は海図へ目を落としたまま続けた。
「捕虜となったのは、都の武官一名、讃岐の武官一名、船夫一名、領民一名の計四名だ。」
誰も口を挟まない。
「生きている保証は無い。」
部屋の空気が重くなる。
「だが、生きている可能性がある以上、見捨てることは出来ぬ。」
その声は静かだった。
だが迷いは無い。
経房が唇を噛む。
「捕虜となった者達が、どのような扱いを受けているかも分かりませぬ。」
「分からぬからこそ急ぐ。」
惟成はそう答えた。
「これからの季節、海賊の出現は増える。当然、討伐の兵は出す。」
海図の上を指が動く。
「だが交戦そのものが目的ではない。」
武官達が身を乗り出した。
「海賊船と交戦した後、その動向を追跡する別働隊を設ける。」
経房が目を細める。
「根城を突き止める、と。」
「そうだ。」
惟成は頷いた。
「捕虜を奪還するまでは、それを最重要事項とする。」
海図の島々を指先でなぞる。
「海賊船が出没する海域、その周辺の島影、入り江、泊地となり得る場所を全て洗い直せ。」
「は。」
「潮の流れも確認しろ。船が身を隠しやすい場所を重点的に調べる。」
「はっ。」
武官達の返答が重なる。
惟成は海図から目を離さなかった。
先の敗北は忘れていない。
船を失ったことも。
命を失ったことも。
だが、立ち止まるつもりも無かった。
「必ず連れ戻す。」
誰に聞かせるでもない。
その小さな呟きだけが、静かな本営に落ちた。




