第239話 撤退
───屋島沖
「源様! 東の方より船影!」
見張りの声が海上へ響く。
惟成はすぐに振り返った。
「数は。」
「三艘です!」
「想定通りだな。」
惟成は海を見据えたまま続ける。
「慌てているように見せろ。航路を乱せ。」
「はっ。」
櫂が慌ただしく動き始める。
塩船は右へ左へと進路を揺らしながら進んだ。
それを見た海賊達の間から笑い声が上がる。
「ははは! 慌てておるぞ!」
「備前へ向かう塩船が見つかったと知って腰を抜かしたか!」
「塩を積み過ぎて、まともに戦える者も乗せられなかったらしい!」
若い海賊達が口々に囃し立てる。
その後ろで、黒鷲の側近は小さく息を吐いた。
愚か者どもめ。
あからさまな芝居に気付きもしない。
だが、それでいい。
頭領は最初から言っていた。
罠ならば、あえて踏み込めと。
男は静かに塩船を見つめる。
その向こうには、きっと惟成もいる。
互いに互いを待っている。
そんな気がした。
「止まれぇぇぇ!!」
海賊船から怒声が響く。
「荷を置いていけぇ!!」
その叫びと共に、先頭の海賊船が速度を上げた。
惟成は船縁からその動きを見据える。
「合図を。」
命令が飛ぶ。
後方の武官が旗を掲げた。
次の瞬間。
島影に潜んでいた二隻の伏兵船が姿を現す。
左右から海賊船を挟み込むように海へ出た。
だが、惟成の眉がわずかに動く。
「……?」
海賊船の動きがおかしい。
慌てていない。
逃げてもいない。
二艘目、三艘目の船が距離を取り始めていた。
左右へ。
大きく。
まるで最初から挟撃の位置を崩すことを考えていたかのように。
その時だった。
海賊船から鉤縄が飛ぶ。
船縁へ食い込み、塩船が大きく揺れた。
「塩を奪えぇぇぇ!!」
海賊達が一斉に乗り込んでくる。
だが惟成達も待っていた。
船夫に扮した武官達が太刀を抜く。
怒号が響く。
槍がぶつかる。
弓弦が鳴る。
船上は瞬く間に戦場へ変わった。
惟成も太刀を抜き、迫る海賊を斬り伏せる。
しかし視線は常に海へ向いていた。
何かがおかしい。
違和感の正体はまだ見えない。
だが確かにある。
その時だった。
惟成の目が見開かれる。
「……小舟?」
海賊船のさらに後方。
十数艘もの小舟が現れた。
小舟には海賊達が乗っている。
しかも進む先は伏兵船だった。
「しまった……!」
惟成は奥歯を噛む。
あの数では進路を塞がれる。
挟撃する側だったはずの伏兵船が、逆に包囲されようとしていた。
海賊船が囮。
本命は小舟だった。
「くそっ……!」
惟成の前には次々と海賊が現れる。
だが立ち止まるわけにはいかない。
太刀を振るいながら周囲へ目を配る。
そして近くの塩俵を掴んだ。
「どけぇ!!」
力任せに投げつける。
海賊が海へ落ちた。
続けて二つ、三つ。
塩俵が飛ぶ。
接舷していた海賊船へ落ちた塩俵が船体を揺らした。
その隙を逃さない。
「鉤縄を外せ!」
武官達が一斉に縄へ取り付く。
「前へ出ろ!」
塩船がゆっくりと動き始める。
少しでも包囲から離れるためだった。
「弓隊は伏兵船を援護しろ!」
惟成の声が飛ぶ。
その時。
一羽の海鳥が頭上を横切った。
続いて二羽。
三羽。
群れをなして飛んでいる。
惟成は反射的に空を見上げた。
そして鳥達の向かう先を見て、息を呑む。
海の色が違う。
青ではない。
浅い。
「まさか……!」
岩礁だ。
惟成の顔色が変わる。
伏兵船の進路の先。
そこに岩礁が潜んでいる。
海賊達は最初からそこへ誘導していたのだ。
方向転換させようにも、小舟が進路を塞いでいる。
逃げ場がない。
次の瞬間。
──ガガガガッ!!
凄まじい音が海に響いた。
片方の伏兵船が岩礁へ乗り上げる。
船体が裂ける。
悲鳴が上がる。
「航行不能!」
叫び声と共に武官達が海へ飛び込んだ。
その姿を追うように、銛を持った海賊達が海へ飛び込んでいく。
惟成は拳を握り締めた。
読まれていた。
備前の噂も。
塩船も。
伏兵船も。
全て。
その時だった。
後方で戦況を見守っていた黒鷲が、静かに目を細める。
「ここまでは儂の勝ちだな。」
海風が黒髪を揺らした。
黒鷲は塩船を見つめる。
その先にいる若き追捕使を。
「さて。」
小さく呟く。
「ここからどうする、若造。」
戦はまだ終わっていなかった。
────
「くそっ! こうも重いと船が遅くなる!」
海賊達が悪態をつきながら、惟成が投げ込んだ塩俵を他の船へ放り始める。
海賊船へ。
小舟へ。
邪魔な荷を少しでも減らそうとしていた。
その様子を見た惟成が、小さく呟く。
「……手間が省けた。」
「え?」
隣の武官が首を傾げた。
惟成は海から視線を外さない。
「火矢の用意をしろ。」
「火矢……ですか? しかし、ここは海です!」
「用意しろと言っている。」
鋭い声だった。
武官は慌てて頭を下げる。
「はっ。」
惟成は続けて周囲を見回した。
「そこの者!」
「はいっ!」
「伏兵船へ撤退の合図を出せ。」
武官は目を見開く。
「撤退……ですか? しかし、伏兵船は進路を塞がれて――」
「いいから合図を出せ。」
惟成の声には迷いがなかった。
「はっ!」
武官が走る。
惟成は弓を手に取った。
火を移した矢を静かにつがえる。
後方から戦況を見ていた黒鷲は眉をひそめる。
「火矢だと?」
そして次の瞬間、口元に冷たい笑みが浮かんだ。
「ははははは!」
笑い声が海へ響く。
「やはり若造か。」
海を指差す。
「ここがどこか忘れたらしい。」
火矢など意味はない。
海風に煽られ、燃え広がる前に消える。
そう思った。
だが。
惟成は落ち着いたまま弓を引き絞る。
そして放った。
ヒュッ―――
火矢が弧を描く。
まっすぐ海賊船へ飛ぶ。
次の瞬間。
矢が船上の俵へ突き刺さった。
そして。
ゴォォォォッ!!
炎が爆ぜた。
俵が一気に燃え上がる。
海賊達の顔色が変わった。
「なっ!?」
「熱っ!!」
「何だこれは!?」
さらに二本。
三本。
惟成の火矢は次々と放たれる。
そのたびに炎が上がる。
投げ捨てられた俵が燃える。
海賊船が燃える。
小舟が燃える。
船上はたちまち混乱に包まれた。
「源様! あれは一体!?」
武官が叫ぶ。
惟成は新たな矢をつがえながら答える。
「油だ。」
「油?」
「あれは塩俵ではない。」
視線は海賊船から離れない。
「俵の中に、油を染み込ませた藁と木片を詰めてある。」
武官が息を呑んだ。
炎は風を受けて広がる。
火だるまになった俵を避けようとして、海賊達は船上を右往左往していた。
「海へ飛び込め!」
「燃えるぞ!」
悲鳴が響く。
小舟の中には転覆するものまで現れた。
その隙を惟成は見逃さない。
「今だ!」
「全速で退け!」
塩船が向きを変える。
伏兵船もまた包囲の綻びを突いて脱出を始めた。
小舟と海賊船の連携は完全に崩れている。
海賊達は追撃どころではない。
船同士の距離が少しずつ開いていく。
惟成はその光景を見つめながら、強く拳を握った。
助かった。
そう思うべきなのだろう。
だが胸の中に残るのは別の感情だった。
伏兵船は一隻失った。
乗っていた者は十二名。
岩礁へ乗り上げた後、海へ飛び込んだ。
助けに戻ることはできなかった。
戦場に残してきた。
生きているかも分からない。
船を失った。
仲間も失った。
それだけは紛れもない事実だった。
火矢は成功した。
だが海賊を討つためではない。
自分達が逃げるための時間を買っただけだった。
惟成は唇を噛み締める。
海賊達との距離は開いていく。
それなのに胸の重さは少しも軽くならなかった。
黒鷲は遠ざかる塩船を静かに見つめていた。
炎に照らされた海が赤く揺れている。
その目は冷たい。
「十二人か。」
誰に聞かせるでもなく呟く。
そして小さく笑った。
「若造。」
海風が黒髪を揺らした。
「その重さを、お前は忘れられるか。」
黒鷲の視線は最後まで塩船を追っていた。
戦は終わった。




