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第238話 囮の塩船

──二月・讃岐の港


船夫達が小声で話している。


「聞いたか? 塩の大口の取引がまとまったらしい。」


「本当か!? それが本当なら少しは儂らも潤うか。塩はいつ運ばれると?」


「五日後くらいに備前へ向けて船が出るらしい。その船の荷は全部塩だとか。」


「その取引が無事終われば……生活も少しは楽になるか。海賊にさえ見つからなければな。」


「ああ。だからこの話は不用意に広めるなよ。」


「もちろんだ。」


そんなやり取りを、大きな荷の陰で聞いていた者がいた。


粗末な着物を着た男である。


見た目はどこにでもいる港人足だった。


だが、その正体は海賊の手の者だった。


男は周囲を見回し、誰も自分を気にしていないことを確かめると、口元を歪めてその場を離れる。


足取りは自然だった。


しかし歩みは次第に速くなっていった。



──讃岐・某所


「おい! 頭領はいるか! 面白い話を聞いてきたぞ!」


男は息を弾ませながら駆け込んだ。


周囲にいた海賊達が怪訝そうな顔を向ける。


その時だった。


「何だ。」


低い声が背後から落ちる。


男は慌てて振り返った。


そこに立っていたのは黒鷲だった。


「頭領!」


男の顔が明るくなる。


「大量の塩を積んだ船が備前へ向けて出るそうです。港の船夫達が話していました。」


「いつだ。」


「五日後くらいとのことです。」


黒鷲は腕を組んだ。


「塩か。」


「良い獲物でしょう?」


男は興奮を隠せない。


塩は金になる。


しかも大量ともなればなおさらだ。


だが黒鷲の表情は変わらない。


「その船について、もっと調べろ。」


「へ?」


「どの船だ。誰の荷だ。どこを通る。調べられるだけ調べてこい。」


男は一瞬戸惑ったが、すぐに頷いた。


「わかりました。」


「急げ。」


「はっ。」


男は駆け去っていく。


その姿が見えなくなると、黒鷲は隣にいた側近へ視線を向けた。


「どう思う。」


側近は少し考えてから答える。


「半々です。」


「理由は。」


「大量の塩を運ぶと言いますが、ひと月ほど前にも塩船は出ています。そんなに在庫が残っていたのかという疑問があります。」


「なるほど。」


「それに、海賊へ知られたくない話を、人の出入りが多い港で話していたというのも妙です。」


黒鷲は小さく笑った。


「俺も同じことを考えた。」


側近は続ける。


「罠ではありませんか。」


「八割はそう思っている。」


「では放っておきますか。」


「いや。」


黒鷲は首を横に振った。


「二割は本物だ。」


「二割。」


「もし本当に塩船なら見逃したくない。」


側近は黙る。


黒鷲は海の方へ視線を向けた。


「それに、罠だとしても面白い。」


「面白い?」


「朝廷側が仕掛けてくるなら、追捕使も出てくる。」


黒鷲の口元がゆっくりと歪む。


「備前へ向かう塩船を襲う準備は進めろ。ただし全ての船は動かさない。」


側近の目が細くなる。


「本命を別に置くのですね。」


「ああ。」


「囮だった場合は。」


「食ってやる。」


黒鷲は笑った。


「本物なら塩を奪う。囮なら追捕使を測る。どちらに転んでも損はない。」


海風が吹く。


黒鷲は遠くの海を眺めた。


その向こうには讃岐の港がある。


そして、そのどこかに新しい追捕使がいる。


「さて。」


黒鷲は静かに呟いた。


「源の若造、どこまで考えている。」


その目には獲物を狙う猛禽の光が宿っていた。



───五日後


港には、一回り大きな船が停泊していた。


そこへ塩俵を担いだ人足達が、次々と乗り込んでいく。


しかし、その大半は武官だった。


惟成もまた、その中に混じり、塩俵を担いで船へ上がる。


積荷の間を歩きながら、惟成は周囲へ目を向けた。


塩俵の陰には太刀。


縄の下には弓。


さらに奥には鉤縄も隠されている。


外から見れば、どこにでもある塩船だった。


だが、その実態は違う。


船の大きさに比べ、乗り組む者は少ない。


大量の荷を積むため、人数を減らして重量を抑えた――そう見せるためである。


本来なら不自然なほど少ない人数だった。


まずは海賊に「勝てる」と思わせる。


乗り手が少なければ制圧は容易。


そう判断して近付いてくるはずだった。


そのために人数を減らした。


不足する戦力は二隻の伏兵船へ回している。


惟成は積荷の間を抜け、船縁へ歩み寄った。


冷たい潮風が頬を撫でる。


沖には穏やかな海が広がっていた。


「……来るでしょうか。」


傍らの武官が小声で尋ねる。


惟成は海を見つめたまま答えた。


「来る。間違いなく。」


塩は金になる。


海賊が見逃すはずがない。


だが惟成の胸には、別の考えもあった。


視線を屋島沖へ向ける。


向こうも警戒しているはずだ。


塩船そのものが囮だと考えていても、おかしくはない。


黒鷲という男。


あの男は決して軽率ではない。


力だけで海賊達を率いているようには見えなかった。


用心深く、慎重で、相手を測ることを忘れない。


だからこそ厄介だった。


「源様、準備が整いました。」


報告の声が飛ぶ。


惟成は振り返った。


「そうか。出せ。」


命令とともに櫂が海へ入る。


ゆっくりと船が動き始めた。


船体が岸を離れ、静かに沖へ向かう。


朝の光を受けながら、塩船は備前への航路へ乗った。


船上の者達は平静を装っている。


だが誰もが知っていた。


この船の目的は塩を運ぶことではない。


海賊を誘い出すこと。


そして、その先に待つ戦いこそが本当の目的だった。

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