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第237話 黒鷲

───同じ頃・瀬戸内海某所


夜の海だった。


月は雲に隠れ、海は墨を流したような闇に沈んだ。


その中を数隻の船が静かに進んでいた。


櫂の音だけが規則正しく響き、船乗り達も無駄な口を利かない。


船団の中央にいる男は腕を組み、黙って海を眺めていた。


海賊達の頭領。


海では「黒鷲」と呼ばれている男である。


年は四十後半。


日に焼けた顔には幾つもの傷が走り、その眼光は夜の海を生きる獣のように鋭かった。


「頭領。」


若い海賊が近寄る。


「屋島沖の件ですが、今思えば妙でした。」


黒鷲は視線を海から動かさない。


「何がだ。」


「商船です。船夫にしては手が綺麗な者がおりましたし、櫂の扱いも不慣れでした。何より、あの船は逃げ方がおかしい。まるで襲われるのを待っていたようでした。」


黒鷲は鼻で笑った。


「気付くのが遅い。」


若い海賊は頭を掻く。


「やっぱり囮でしたか。」


「ああ。」


黒鷲は短く答えた。


「やっとまともな奴が来た。」


その言葉に周囲の海賊達が顔を見合わせる。


讃岐へ新しい追捕使が来たという話は既に聞いていた。


源惟成。十六歳。


最初にその年齢を聞いた時、海賊達は皆笑った。


貴族の子供が送られてきた。


朝廷もいよいよ讃岐を見捨てたのだろう、と。


だが数ヶ月経った今、そのようなことを言う者は一人もいない。


黒鷲もまた、惟成という男を軽く見ることはやめていた。


「頭領は、あの追捕使をどう思います?」


別の海賊が尋ねる。


黒鷲は少し考えた。


「あの若造は急がん。」


「急がない?」


「歴代の追捕使は違った。着任するとすぐ兵を出し、すぐ戦を始めた。海も知らず、潮も知らず、地形も知らずにな。」


海賊達が苦笑する。


思い当たる節が多すぎた。


「だが今度のは違う。海を調べ、人を調べ、俺達を調べている。」


「それだけ慎重だと厄介ですな。」


「厄介だ。」


黒鷲は素直に認めた。


それどころか。


少し面白くなっていた。


これまで讃岐へ来た追捕使達は、大半が都の厄介者だった。


失脚した者。


左遷された者。


あるいは欲に溺れた者。


戦う前から勝手に崩れていった。


だが惟成は違う。


若い。だが頭が回る。


しかも腕が立つ。


屋島沖で実際に見た。


船の上とは思えない動きだった。


「あれは武官だ。」


黒鷲は呟く。


「貴族の坊ちゃんではない。」


海風が吹いた。


若い海賊が尋ねる。


「次も同じ手を使ってきますかね。」


黒鷲は首を横に振る。


「使わんだろう。一度見破られた手を繰り返すほど愚かではない。」


「なら次は?」


黒鷲の口元が歪む。


「次は狩りに来る。」


海賊達の空気が変わった。


誰もがその言葉を理解した。


囮を使ったということは、向こうも攻勢に出る気になったということだ。


黒鷲は海を見つめながら続ける。


「学んだ。調べた。そして試した。なら次は獲物を仕留めに来る。」


その声には確信があった。


「だが。」


海賊達の視線が集まる。


黒鷲はゆっくりと笑った。


「狩る側と狩られる側は、いつでも入れ替わる。」


若い海賊が目を細める。


「何か考えが?」


「ああ。」


黒鷲は頷いた。


「こちらも餌を撒く。」


その一言に船上が静まり返った。


誰もが頭領の意図を察したからだ。


向こうが囮を使うなら、こちらも囮を使う。


向こうが待ち伏せるなら、こちらも待ち伏せる。


若き追捕使が狩人になったつもりなら、その足元を掬ってやればいい。


雲が流れ、月が姿を現した。


その光が黒鷲の顔を照らす。


「追捕使の若造に教えてやろう。」


黒鷲は静かに笑った。


「海では、生き残った方が強い。」


海賊船は闇の海を進んでいく。


そしてその頃、讃岐では若き追捕使もまた次なる戦の準備を始めていた。


互いに相手を狙い、互いに牙を研ぐ。


第二の戦いは、既に始まっていたのである。



───二月・讃岐本営


海図の上に幾つもの木札が並べられていた。


屋島沖。

志度沖。

庵治沖。


瀬戸内海の主要な航路が記されている。


惟成は腕を組み、海図を見つめていた。


周囲には讃岐守、和気経房、武官達が集まっている。


「前回の囮で分かったことがある。」


惟成が口を開いた。


「海賊達は我々が思っている以上に慎重だ。」


武官達が頷く。


前回の作戦では海賊を誘い出すことには成功した。


しかし壊滅には至らなかった。


相手もまた、こちらの異変に気付いていたのである。


「次はもっと大きな餌を見せる。」


経房が眉を上げた。


「大きな餌?」


「塩だ。」


部屋が静かになる。


讃岐は塩の産地だった。


瀬戸内では貴重な積荷である。


「塩を積んだ商船が備前へ向かうという噂を流す。」


「本当に流すのか?」


「流す。」


惟成は頷いた。


「しかも海賊達の耳に入るように。」


武官達が顔を見合わせた。


危険な策だった。


だが惟成の顔に迷いは無い。


「前回はこちらが海賊を探した。今回は向こうから来させる。」


讃岐守が腕を組む。


「襲われるのは本物の商船か?」


「いや。」


惟成は海図の一点を指した。


「囮船だ。」


部屋の空気が引き締まる。


「今回は船を三隻出す。」


「三隻も?」


「一隻は囮。」


「残り二隻は。」


「伏兵だ。」


その瞬間、経房が笑った。


「なるほど。」


「海賊が囮船へ群がったところを挟み撃ちにする。」


「その通りです。」


惟成は淡々と答える。


「だが問題が一つある。」


武官達が身を乗り出した。


「海賊もこちらを警戒している。」


前回の戦でそれは明らかだった。


相手は愚かではない。


同じ手は通じない。


「だから今回は海賊の方から『勝てる』と思わせる。」


惟成は海図へ木札を置いた。


囮船。


そして伏兵船。


さらに別の木札を置く。


「我々は敢えて隙を見せる。」


「隙?」


「囮船には兵を少なく見せる。」


経房が吹き出した。


「源殿、悪い顔をするようになったな。」


「そうでしょうか。」


「そうだ。」


周囲から笑いが漏れる。


だが惟成は真面目な顔のままだった。


「海賊は我々を試してくる。


ならば、試させればいい。」


部屋が静かになる。


惟成は海図から目を離さなかった。


「今回の目的は撃退ではない。」


その声は低かった。


「頭領を再び引きずり出す。」


経房の顔から笑みが消える。


武官達も息を呑んだ。


これまで海賊達を率いてきた頭領。


その存在は噂ばかりで今まで姿を見た者は少ない。


だが海賊達が組織的に動いている以上、必ず中心にいる。


「頭を落とせば群れは崩れる。」


惟成は静かに言った。


「そのための戦だ。」


窓の外では冬の海が広がっている。


冷たい風が板戸を鳴らした。


その海のどこかで、海賊達もまた牙を研いでいるはずだった。


だが惟成は知らない。


海賊の頭領・黒鷲もまた、同じように餌を撒こうとしていることを。


双方が相手を誘い込もうとしていた。


罠の中へ。互いに。


誰もまだ気付いていない。


次の戦が、これまでで最も危険な戦になることを。

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