表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
236/259

第236話 月夜の海

───数日後・讃岐本営


冬の海風が本営の板戸を揺らしていた。


惟成は机に向かい、海図を見つめていた。


先日の囮作戦で得た情報を書き込み終えたばかりである。


机の上には海図や木簡、各地から届いた報告書が積まれていた。


だが今は筆を置き、内容を整理しているところだった。


「源様。」


聞き慣れた声がした。


顔を上げると、和気氏の姫君が立っていた。


後ろには女房達が続いている。


その手には大きな籠が抱えられていた。


「和気の姫君でしたか。」


「また難しいお顔をなさって。」


姫君は苦笑した。


「海図を睨んでいても逃げませんわよ。」


「そう願いたいものです。」


「まあ。」


姫君は楽しそうに笑った。


女房達が籠を下ろす。


蓋が開かれると、強飯や焼き魚、汁物などが現れた。


「父上からです。」


「和気殿にお礼を申し上げねばなりませんね。」


「私も手伝いましたのに。」


「では姫君にも。」


「今のは少し点数が低いですわ。」


惟成は困ったように黙る。


その様子に姫君は満足そうだった。


「冗談です。」


女房達が笑う。


惟成はようやく少し肩の力を抜いた。


「今日は何か御用でしょうか。」


「用がなければ来てはいけませんの?」


「そのようなことは。」


「なら良かった。」


姫君は自然な仕草で座った。


女房達も少し離れた場所へ下がる。


蔀戸の外では冬の海が光っていた。


「先日の戦、皆喜んでおります。」


「まだ始まったばかりです。」


「それでもです。」


姫君は海を見た。


「領民達は海賊が現れるたびに怯えてきました。船が戻らない日もありましたし、漁にも出られないことがありました。」


惟成は黙って聞いている。


「だから皆、源様を信頼しております。」


「それは私ではなく、戦った者達のおかげです。」


「そういうところです。」


「何がでしょう。」


「皆が源様を好きになる理由です。」


姫君はさらりと言った。


惟成は少しだけ視線を逸らした。


その反応が面白くて、姫君は笑う。


「顔が赤くなりました?」


「なっておりません。」


「なっております。」


「なっておりません。」


「なっております。」


女房達がくすくす笑う。


惟成は諦めたように息を吐いた。


姫君は満足そうに微笑んだ。


しばらく穏やかな時間が流れる。


やがて姫君がぽつりと口を開いた。


「源様。」


「何でしょう。」


「討伐が終わったら、都へ帰られるのですか。」


先程までの明るさが少しだけ消えていた。


惟成は姫君を見る。


姫君は海を見ていた。


「そのために参りました。」


静かな返事だった。


「やはり。」


姫君は小さく笑った。


「讃岐に残るお気持ちはありませんのね。」


「ありません。」


迷いの無い答えだった。


姫君は少しだけ俯く。


そして何でもないように続けた。


「都には大切な方がおられるのですか。」


惟成は答えなかった。


蔀戸の外を見る。


冬の海。


その向こう。


遥か東。


京がある方角だった。


姫君はその仕草を見てしまった。


誰かいる。


言葉にしなくても分かった。


赴任してから何度か見たことがある。


ふとした時に遠くを見る目。


海ではなく、讃岐ではなく。


もっと遠くを見ている目だった。


「そうですか。」


姫君は静かに笑った。


「その方は幸せ者ですわね。」


惟成は返事をしなかった。


ただ、わずかに目を伏せる。


その沈黙だけで十分だった。


姫君は胸の奥が少しだけ痛むのを感じた。


だが、それ以上は聞かなかった。


聞けばきっと後悔する。そんな気がしたからだった。


やがて姫君は立ち上がる。


「長居をしてしまいました。」


「いえ。」


「差し入れは必ず召し上がってくださいまし。」


「承知しました。」


「本当ですわよ?」


「努力します。」


「努力ではありません。食べるのです。」


女房達がまた笑う。


惟成もわずかに口元を緩めた。


その笑顔を見て、姫君の胸はもう一度だけ痛んだ。


その笑顔を向けられているのは自分ではない。


きっと都にいる誰かだ。


それでも、もう少しだけ。もう少しだけなら。


そう願いながら、姫君は本営の館を後にした。



───その夜


本営の館は静まり返っていた。


軍議は終わり、見回りの兵達もそれぞれの持ち場へ戻っている。


惟成は離れの寝所へ入ったものの、なかなか眠気が訪れなかった。


昼間の会話が頭に残っていたからだ。


――都には大切な方がおられるのですか。


和気の姫君はそう尋ねた。


惟成は答えなかった。


答えられなかった、と言った方が正しいかもしれない。


しばらく横になっていたが、やがて諦めたように起き上がる。


夜気は冷えていた。


惟成は衣を一枚重ねると離れを出た。


向かった先は海だった。


岬へ出ると、月明かりが海面に淡い光を落としている。


波音だけが静かに響いていた。


惟成は岩場に立ち、その光景を見つめる。


讃岐へ来て四ヶ月。


海図を覚え、潮の流れを覚え、豪族達の顔も兵達の名も覚えた。


海賊達の動きも少しずつ見えてきている。


やるべきことは山ほどあり、考えるべきことも尽きない。


だから都のことを思い出す暇など無いと思っていた。


だが静かな夜だけは別だった。


一人になると、忘れたはずのことが不意に浮かび上がってくる。


「……。」


脳裏に浮かんだのは宇治だった。


紗世の頬を叩いた、あの日。


驚いた顔、傷付いた顔、そして何か言いたげだった目。


だが自分は聞かなかった。聞こうともしなかった。


あの日の自分は冷静ではなかった。


武芸や仕事で熱くなることなど無い。


だがあの時だけは違った。


紗世が危険な目に遭ったこと。


自分の知らないところで傷付いていたこと。


様々な感情が入り混じり、何を言えば良いのか分からなくなっていた。


だから背を向けた。


あれ以上その場に留まれば、きっと後悔する言葉を吐いていた。


そう思ったからだ。


「情けないな。」


小さく呟く。


その後、主上から追捕使を命じられた。


なんの準備もできず、翌日には紗世が都へ戻るより先に讃岐へ下向した。


結局、会うことはなかった。


謝ることも、説明することも出来ないまま。


波が岩を叩く。


惟成は海へ視線を向けたまま静かに息を吐いた。


昨年末に送った歌のことを思い出す。


待つな。


忘れろ。


幸せになれ。


自分はそう願った。


そう願うべきだと思った。


武官として生きる以上、明日死ぬかもしれない。


海賊討伐などなおさらだ。


ならば紗世を縛るべきではない。


その考えは今も変わらない。


変わらないはずだった。


惟成は月に照らされた海を見つめる。


「……忘れてくれている方が良い。」


そう呟く。


良い縁談が決まっているかもしれない。


もう別の男へ笑いかけているかもしれない。


兼成ならば必ず相手を見極めるだろう。


紗世もまた、自分より穏やかな人生を歩めるはずだ。


それで良い。そう願ったのは自分だ。


それなのに、胸の奥が僅かに痛んだ。


海風が吹く。


月明かりが揺れる。


ふと、もし今ここに紗世がいたら何と言うだろうと思った。


きっと怒る。


勝手に全て決めるな、と。


一人で抱え込むな、と。


そう言って眉を吊り上げる姿が容易に想像できる。


惟成は思わず苦笑した。


「変わらぬな。」


誰もいない夜の海へ向かって呟く。


その声は波音に溶けて消えた。


遠くには漁火が見える。


海賊達もまた、どこかで動いているのだろう。


戦はまだ終わっていない。


討伐はこれからが本番だ。


惟成は空を見上げた。


冬の星々が静かに輝いている。


「……まだ終われぬ。」


それだけ呟くと踵を返した。


今は余計なことを考える時ではない。


守るべき者達がいる。


終わらせるべき戦がある。


若き追捕使は再び本営へ向かう。


その背を、月だけが静かに照らしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ