第234話 開戦
───早朝・屋島沖
空が白み始めた頃。
一隻の商船が静かな海を進んでいた。
船倉には塩俵、干物、布、酒樽。
誰が見ても、ごく普通の商船だった。
船上では船夫達が縄を引き、帆を調整している。
しかし、その中には本物の船夫ではない者達も混じっていた。
海賊追捕使配下の武官達である。
皆、粗末な衣を身に纏い、刀も見えぬよう隠していた。
「落ち着かぬな……。」
若い武官が小声で呟いた。
「当然だ。」
隣の男が答える。
「海賊が来ぬかもしれぬし、来たら来たで命懸けだ。」
「……追捕使様は本当に乗っておられるのか?」
その問いに周囲が視線を向ける。
船首近く。
一人の船夫が縄を確認していた。
日に焼けた笠。粗末な水干。
どこから見ても船夫だった。
「あれが源様だ。」
「……信じられん。」
「追捕使自ら囮船に乗るなど。」
「歴代の追捕使で聞いたことがない。」
小声が広がる。
その時だった。
「私語は慎め。」
船首から声が飛んだ。皆が慌てて口を閉じる。
惟成だった。
船夫姿でも声だけで分かる。
「海賊は馬鹿ではない。気の緩みは察知される。気を付けろ。」
「はっ!」
小声で返事が返る。
惟成は再び海へ視線を向けた。
風は弱い。波も穏やか。
絶好の襲撃日和だった。
だからこそ不気味だった。
海賊は出る。
惟成には確信があった。
これまで集めた情報、襲撃場所、潮流、風向き。
全てが今日だと言っている。
その時、見張り役の男が小さく声を上げた。
「源様。」
「何だ。」
「左前方。」
惟成は振り向いた。
水平線の向こう。小さな黒い影。
一つ。
二つ。
三つ。
「……。」
惟成は目を細めた。
船だ。漁船ではない。
速度が違う。動きが違う。
こちらを窺うように進路を変えている。
「来ましたな。」
隣の武官が声を潜める。
惟成は頷いた。
「慌てるな。まだだ。」
商船は何も気付いていないふりをして進み続ける。
海賊船との距離が縮まる。
一町。
半町。
やがて船影がはっきり見えるようになった。
見張り台、武装した男達、そして船首に立つ大男。
海賊だった。
「かかった……。」
武官の一人が呟く。
海賊船は一隻ではない。
後方からさらに二隻。合計三隻。
想定通り。いや、想定以上だった。
だが惟成の表情は変わらない。
「合図まで動くな。」
静かな声。
その声に皆が落ち着きを取り戻す。
海賊船が近付く。
さらに近付く。
弓が届く距離。
そして海賊船から怒声が響いた。
「止まれぇぇぇ!!」
海上に声が轟く。
「積荷を置いて行け!!」
船上の武官達の喉が鳴った。
しかし惟成は動かない。
海賊船は完全に食いついた。
もう少し、あと少し引き付ける。
惟成は海賊船の後方を見た。
沖合。島影の向こう。
そこには見えないはずの伏兵船が待機している。
ここで動けば全てが無駄になる。
まだだ。まだ。
海賊船との距離がさらに縮まる。
そして、海賊の弓兵が矢を番えた。
「源様!」
武官が叫ぶ。
その瞬間、惟成は静かに立ち上がった。
船夫の笠を外す。腰に隠していた太刀へ手を掛けた。
海風が黒髪を揺らす。
海賊達の顔が変わった。
ただの商船ではない。
ようやく気付いたのだ。
惟成は太刀を抜いた。
朝日を受けた刃が鋭く光る。
「合図を上げろ。」
低い声が響く。
次の瞬間、商船の後方から狼煙が上がった。
そして島影の向こうから。
待機していた朝廷軍の船団が姿を現した。
海賊達の顔色が変わる。
「なっ……!」
「罠だ!!」
怒号が飛び交う。
惟成は太刀の切っ先を海賊船へ向けた。
「追捕使・源惟成。」
静かな声だった。
だが海賊達全員に届いた。
「その首領。ここへ出て来い。」
海風が吹き抜ける。
そして、讃岐へ来て初めての本格的な海戦が始まろうとしていた。
───
「罠だ!!」
海賊船の上で怒号が飛ぶ。
「引け!!引けぇ!!」
海賊達は慌てて船首を返そうとした。
だが遅い。
島影から現れた朝廷軍の船団が既に退路へ回り込み始めていた。
惟成は海賊船の動きを冷静に見つめる。
「予想通りだ。」
「え?」
隣の武官が振り向いた。
「海賊は戦を好まぬ。」
惟成は言った。
「奴らの目的は積荷だ。勝つことでも名を上げることでもない。奪うことだ。」
海賊船が大きく方向を変える。
朝廷軍ではなく、沖へ逃げようとしていた。
「ほらな。」
惟成は静かに言った。
「逃げる。」
次の瞬間。
海賊船から矢が放たれた。
ヒュッ!!
矢が海面へ突き刺さる。
「射てぇ!!」
海賊達が一斉に弓を引く。
「伏せろ!!」
武官達が叫ぶ。
矢が降り注ぐ。
だが、惟成は動かなかった。
ガンッ!
目の前へ飛んできた矢を太刀で弾く。
「なっ!?」
海賊達が息を呑んだ。
「距離が遠い。矢の軌道も読める。」
惟成は淡々と言う。
「当たらん。」
その声は海風に乗って海賊達にも届いた。
「小僧がぁ!!」
海賊の一人が怒鳴った。
「源様!!」
後方から三宅の声。
「伏兵第一隊、接敵!」
惟成は頷いた。
予定通り。海賊船は三隻。朝廷軍は五隻。
数はこちらが上だ。
だが
「油断するな。」
惟成は低く言った。
「奴らは海の上では我らより強い。」
武官達の表情が引き締まる。
その時だった。
一隻の海賊船が突然こちらへ突っ込んできた。
「源様!!」
「来るぞ!!」
海賊達が鉤縄を構える。
接舷。
乗り込む気だ。
惟成は太刀を握った。
ようやく海戦ではなく、白兵戦になる。
海賊船が激突した。
ドォン!!
船体が大きく揺れる。武官達が体勢を崩す。
その瞬間
「乗り込めぇぇぇ!!」
海賊達が飛び込んできた。
五人、十人。
荒くれ達が次々と商船へ飛び移る。
「迎え撃て!!」
武官達も抜刀した。
金属音が響く。怒号が飛び交う。
海の上の乱戦。
惟成の目の前へ大男が現れた。
顔には大きな刀傷。
腕は丸太のように太い。
「追捕使か。」
男が笑う。
「若いな。」
「そうか。」
惟成は短く答えた。
「すぐ死ぬには丁度良い歳だ。」
大男が大薙刀を振り下ろした。
轟音。
しかし、当たらない。
惟成の姿は既に横へ移動していた。
「なっ!?」
男が目を見開く。
速い。想像を超えていた。
惟成はそのまま踏み込む。
一歩、二歩、三歩。
海の上とは思えぬ足運び。
そして銀光が走った。
ズバッ!!
鮮血が舞う。
大男の薙刀が甲板へ落ちた。
続いて男自身も膝をつく。
静寂。
周囲の海賊達が動きを止めた。
「う、嘘だろ……。」
誰かが呟く。
一太刀だった。
たった一太刀。
海賊船の中でも屈強な戦士が倒された。
惟成は血を払った。
そして静かに言う。
「投降するなら命は取らぬ。」
海賊達の顔色が変わる。
だがその時、後方の海賊船から角笛の音が響いた。
ブオオオオォォ───
海賊達が一斉に反応する。
「頭領だ!!」
「頭領が来るぞ!!」
武官達もざわついた。
「頭領……?」
惟成は海の向こうを見た。
そこには今までの三隻とは比べものにならぬ大きさの船影があった。
ゆっくりと、だが確実に、こちらへ近付いて来る。
海賊達の表情が変わる。
恐怖ではない。歓喜だった。
「来た!!」
「頭領だ!!」
「頭領様だ!!」
惟成は目を細める。
(これが……。)
海賊達を十年以上束ね続けてきた男。
瀬戸内海最大の敵。
その姿が、ついに現れようとしていた。




