第233話 出陣前夜
───その夜・讃岐本営
本営の館は慌ただしかった。
兵達は武具を点検し、偽装の小道具の確認、出陣の準備に追われている。
廊下を行き交う足音も絶えない。
しかし、その喧騒から少し離れた一室では静かな時間が流れていた。
惟成は灯火の下で海図を広げていた。
屋島沖。
海賊が現れた海域。
潮の流れ。
島々の位置。
風向き。
報告を受けた情報を一つずつ確認していく。
ふと廊下の向こうで足音が止まった。
「源様。」
聞き慣れた声だった。
「どうぞ。」
御簾の向こうから和気氏の姫君が姿を見せた。
女房を一人だけ連れている。
「こんな時間に申し訳ありません。」
「構いません。」
姫君は部屋へ入ると、小さな包みを差し出した。
「これは?」
「干した果実です。」
「果実?」
「船の上でも食べられるでしょう?」
そう言って少し笑う。
「海賊討伐のお役には立てませんけれど。」
惟成は包みを受け取った。
「ありがとうございます。」
「……本当に食べてくださいます?」
「いただきます。」
即答だった。
姫君は思わず吹き出した。
「源様は面白い方ですわ。」
「そうでしょうか。」
「ええ。」
姫君はくすくす笑った。
「普通はもっと気の利いた返事をなさるものです。」
「私はそのようなことが得意ではありません。」
「存じております。」
そう答える声はどこか楽しそうだった。
しばらく沈黙が落ちる。
館の外では風の音が聞こえる。
姫君は庭へ視線を向けた。
「初めてお会いした日のこと、覚えておられます?」
「覚えております。」
「本当に?」
「姫君が『こんな若い追捕使では頼りない』とおっしゃったことは。」
姫君は顔を真っ赤にした。
「なっ……!」
惟成の口元が僅かに緩んだ気がした。
気のせいかもしれない。
だが姫君は確かに見た気がした。
「忘れてくださいませ……。」
「事実ですので。」
「本当に意地が悪いですわ。」
姫君は頬を膨らませる。
そして、ふと表情を和らげた。
「でも。」
「?」
「今は違います。」
惟成は黙って聞いている。
「源様が来られてから、港の者達の顔が変わりました。漁師達も。兵達も。領民達も。」
姫君はゆっくりと言葉を続けた。
「皆、希望を持っております。」
「そうですか。」
「ええ。」
姫君は頷いた。
「ですから。」
そこまで言って言葉を切る。
惟成が視線を向けた。
姫君は少し迷った後、静かに言った。
「ご自身を大事になさってください。」
惟成は答えなかった。
代わりに灯火が揺れた。
「源様は時々、ご自身を顧みておられないように見えます。」
「そのようなことは。」
「あります。」
即座に否定される。
惟成は少しだけ困ったように目を伏せた。
姫君は続けた。
「讃岐のために働いてくださるのは嬉しいのです。けれど、源様が倒れてしまったら意味がありません。」
静かな声だった。
惟成はしばらく考えるように沈黙した。
やがて言う。
「お気遣い、感謝いたします。」
姫君は少し笑った。
「またそれです。」
「?」
「源様の『感謝いたします』は便利なお言葉ですわ。」
惟成は返答に困った。
姫君はその様子を見て楽しそうに笑う。
しばらくして立ち上がった。
「長居をしてしまいました。」
「いえ。」
「明日は早いのでしょう?」
「はい。」
姫君は御簾の前で足を止めた。
振り返る。
灯火に照らされた惟成の姿が見えた。
若い。
まだ十六歳。
けれど誰よりも大きなものを背負っているように見えた。
「源様。」
「何でしょう。」
姫君は一瞬だけ迷った。
だが結局、胸の内に浮かんだ言葉は飲み込んだ。
代わりに微笑む。
「お気を付けて。」
惟成は静かに頷いた。
「行って参ります。」
その言葉に、姫君の胸が小さく高鳴った。
御簾が下ろされる。
足音が遠ざかっていく。
惟成は再び海図へ視線を落とした。
しかし、しばらくの間だけは、手元の海図ではなく、机の上に置かれた干し果実の包みを見つめていた。
───翌朝・讃岐本営
まだ夜の名残が空に残る刻。
本営の館では既に出陣の準備が始まっていた。
武具の音。
兵達の足音。
偽装の為の荷物。
冬の冷たい空気の中、本営は慌ただしく動いている。
惟成は一人、自室にいた。
出立の支度は既に終えている。
太刀も。弓も。鎧も。
全て整っていた。
残るは出陣のみ。
静かな部屋の中、惟成は文箱へ視線を落とした。
蓋を開ける。中には数通の文が入っていた。
讃岐へ赴任してから届いたものだ。
讃岐守。
地方豪族。
武官仲間。
様々な者から送られてきた文。
その中に一つだけ、見慣れた料紙があった。
紗世から届いた文だった。
惟成は指先でそっと触れる。
だが開かない。
見る資格はないと思った。
自ら断ち切ったのだから。
昨年末、兼成へ文を送った。そして紗世へも。
待つな。
忘れろ。
幸せになれ。
そういう意味を込めた和歌を送った。
あれ以来、紗世からの文は来ていない。
届いていないだけかもしれない。
だが、届いていたとしても読まぬつもりだった。
そう決めていた。
惟成は静かに目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、宇治で紗世に会った最後の日。
髪も、衣も、全身が水を吸い、ずぶ濡れになっていた。
震える身体。青ざめた顔。
それでも生きていた。
その姿を見た瞬間。
胸の奥から込み上げてきた感情を、今でも思い出せる。
安堵だったのか、怒りだったのか、恐怖だったのか。
自分でも分からない。
ただ一つだけ確かなことがある。
あの時、紗世を失うかもしれないと思った。
そして、それが怖かった。
惟成はゆっくりと目を開いた。
あの後、まともに話もできなかった。
謝罪も、別れも、何一つ。
だからこそ、自ら距離を置いた。
追捕使の任は生死と隣り合わせだ。
紗世を待たせてはならない。
そう考えた。そう決めた。
それなのに、忘れようとするほど、思い出してしまう。
川辺で見たあの姿を。
泣きそうな顔を、笑った顔を、怒った顔を。
「……。」
惟成は文箱を閉じた。
もう考えるな。
今、自分がいるのは都ではない。讃岐だ。
追捕使としてここにいる。
生きて帰れる保証もない。
ならば今は海賊討伐だけを考えるべきだ。
そのために。そのためだけに。
惟成は立ち上がった。




