第232話 和気氏の姫君
───数日後・讃岐本営
「船夫に扮するだと?」
大伴景綱が眉をひそめた。
本営の広間には海図が広げられ、武官達が集まっている。
惟成は海図の上に小さな木札を置いた。
「囮船は一艘。塩船に見せかける。
護衛は付けない。
船夫は八名。うち五名は武官だ。」
ざわりと場が揺れた。
「護衛を付けぬのか!?」
「付ければ海賊が警戒します。」
「だが危険だ!」
「だからこそ海賊は食いつく。」
惟成は平然と言った。
「我らが欲しいのは海賊の首ではない。
奴らの根城だ。」
その言葉に武官達が静まる。
海賊を何人か討ったところで意味はない。
瀬戸内海には次々と新しい海賊が現れる。
本当に必要なのは頭領の居場所。
そのためには生け捕りが必要だった。
「まずは捕らえる。話はその後だ。」
惟成は海図を指差した。
「ここだ。」
複数の島が点在する海域。
「過去二ヶ月の襲撃地点。
潮流。風向き。海賊の逃走経路。
全て調べた。」
武官達は思わず顔を見合わせた。
ここまで調べ上げていたのか。
「この海域に現れる可能性が最も高い。よって囮船を出す。」
「伏兵は?」
三宅宗平が尋ねた。
「二手。」
惟成は木札を置いた。
「第一隊は島陰。第二隊は沖。接舷を確認したら包囲する。」
「逃げ道は?」
「作らぬ。」
惟成の声は静かだった。
しかし、その内容は徹底していた。
まるで獣を追い込む猟師のように。
「源様。」
一人の武官が前へ出た。
「囮船の役、私にお任せください。」
すると別の武官も立つ。
「いや、私が。」
「私も行きます。」
次々と名乗りが上がった。
最初は若造と侮っていた男達だった。
だが今は違う。
惟成の下なら勝てる。
そう思い始めている。
惟成は一人一人を見回した。
「志願は感謝する。だが」
その視線が大伴へ向く。
「泳げる者を優先する。」
「は?」
「海賊は海に飛び込む。」
「追うためには泳げねばならぬ。」
一同が固まる。
そう言えば、都から来た武官達の中には泳げない者もいる。
「泳げぬ者は今から覚えろ。」
「……今からですか?」
「海賊は待ってくれない。」
惟成は本気だった。思わず何人かが頭を抱える。
その様子に三宅が吹き出した。
「ははっ!源様らしい!」
珍しく広間に笑いが広がる。
その時だった。外から足音が響いた。
「源様!」
若い兵が駆け込んでくる。
「和気殿の姫君がお見えです!」
広間の空気が微妙に変わった。
武官達が一斉にニヤニヤし始める。
「また来られたのか。」
「三日連続だな。」
「今日は何を持って来られたんだ?」
惟成は無表情のまま立ち上がった。
「軍議中だ。」
「追い返しますか?」
「いや。」
惟成は少し考えた。
「せっかく来られたのだ。通せ。」
数人の武官が顔を見合わせる。
追い返しはしない。しかし特別扱いもしない。
実に惟成らしい。
やがて御簾の外から明るい声が聞こえた。
「源様!差し入れを持って参りました!」
その声に広間の男達は苦笑した。
ただ一人。
惟成だけは海図から目を離さない。
頭の中は既に、数日後の海の上にあった。
和気氏の姫君が広間へ姿を現した。
従者や女房達が後ろに続く。
姫君は上機嫌で手を叩いた。
「さあ、皆様!温かいうちにどうぞ!」
従者達が次々と籠を並べていく。
焼いた魚。
干物。
蒸した芋。
汁物。
蜜をかけた菓子まであった。
先程まで海賊討伐の話をしていた武官達の目が輝く。
「おおっ!」
「これはありがたい!」
「姫様万歳!」
「おい、お前ら少しは遠慮しろ。」
三宅が笑った。
「遠慮などしていたら他の奴に食われてしまう!」
大伴は既に魚へ手を伸ばしている。
広間はあっという間に賑やかになった。
姫君は満足そうに頷いた。
「ふふ。やはり食事は賑やかな方が良いわ。」
そう言って惟成を見た。
「源様も。」
「いただきます。」
惟成は一礼して箸を取った。
焼魚を一口。
汁を一口。
それだけで再び海図へ視線を落とす。
姫君は頬を膨らませた。
「もう。」
「何か。」
「何か、ではありません。」
姫君は惟成の隣へ座った。
「せっかくの差し入れですのに。」
「感謝しております。」
「そういうことではなく。」
「……?」
惟成は本当に分かっていない顔をしている。
姫君はため息をついた。
周囲の武官達は面白そうに見守っている。
「源様はいつもそうです。」
「いつも?」
「そう。」
姫君は指を折った。
「朝から兵の訓練。昼は軍議。夜は報告書。
寝るのは夜更け。起きるのは日の出前。
そればかり。」
「追捕使ですので。」
「だからと言って限度があります!」
武官達がうんうんと頷く。
実際その通りだった。
惟成は働き過ぎだった。
夜明け前には起き、兵の訓練を見て回る。
昼は軍議。
夕刻は報告を受け、夜は海図と睨み合う。
武官達ですら呆れるほどの働きぶりだった。
だが、惟成には理由があった。
働いていなければ、考えてしまう。
都に残してきた紗世のことを。
昨年末、兼成と紗世へ文を送った。
兼成には、紗世の将来を託す文を。
そして紗世には、
我を待つ契りは捨てて――
自分を忘れ、幸せになれ。
そういう意味を込めた和歌を送った。
あれから、紗世からの文は届いていない。
いや。
正確には届いているのかもしれない。
本営に届く大量の文の中に埋もれている可能性もある。
しかし惟成は確かめようとはしなかった。
確かめれば心が揺らぐ。
紗世は聡い。
あの和歌の意味も理解したはずだ。
ならば、もう前を向いているだろう。
それで良い。
そう願ったのは自分なのだから。
「……。」
惟成は無意識に拳を握り締めていた。
忘れなければならない。
紗世の幸せのためにも。
だから働く。
考える暇が無いほどに。
海賊討伐に没頭し続けるしかなかった。
────
「源様。」
姫君は少し真面目な顔になった。
「囮船の話、本当なのですか?」
広間が静かになる。
惟成は頷いた。
「本当です。」
「危険ではありませんか。」
「危険です。」
即答だった。
姫君は思わず言葉を失った。
危険ではない。
そう言うと思っていた。
しかし惟成は違った。
「危険だからこそ海賊は食いつく。」
「ですが……。」
「海賊討伐に危険は付き物です。」
静かな声だった。
その言葉に、姫君は唇を噛んだ。
しばらく俯いていたが、やがて小さく言った。
「私……昔から追捕使というものが好きではありませんでした。」
武官達が顔を見合わせる。
「好きではない?」
「ええ。」
姫君は苦笑した。
「だって皆、都から送られてきた方ばかりでしたもの。
讃岐のことなど何も知らず。海も知らず。領民の顔も覚えず。
海賊を討つと言っては失敗して。
都へ帰ることばかり考えていた。」
経房が苦笑した。
「まあ、否定はできんな。」
「だから私、源様が来られると聞いた時も同じだと思いました。」
姫君は素直に言った。
「十五歳の若者だと聞いていましたし。
朝廷はまた厄介者を送り込んできたのだと。」
広間から笑いが起こる。
惟成は特に気にした様子もない。
「ですが違いました。」
姫君は真っ直ぐ惟成を見た。
「源様は海を知ろうとした。領民の話を聞いた。兵を無駄死にさせなかった。
それに……」
言いかけて少し頬を染める。
「誰よりも讃岐のことを考えてくださっている。」
広間の武官達が一斉にニヤニヤし始めた。
姫君は気付いていない。
惟成だけは気付いている。
しかし反応に困る。
「ですから。」
姫君は声を落とした。
「源様に何かあれば……困るのです。」
その言葉に広間は静まり返った。
今度は誰も茶化さなかった。
姫君自身も、それがどういう意味の言葉なのか理解していたからだ。
惟成はしばらく黙っていた。
そして静かに言った。
「ご心配、感謝いたします。」
それだけだった。それだけだったが。
姫君は少しだけ笑った。
「ならば無事に帰ってきてくださいませ。」
「そのつもりです。」
短い返事。
だが姫君は、それで十分だった。




