第230話 待つな
───十二月初旬
惟成が都を離れて、三ヶ月が経とうとしていた。
紗世は何度か讃岐の本営へ惟成宛の文を送っていた。
しかし、返事は一通も届いていない。
届いていないのだろうか。
文を読む暇もないほど忙しいのだろうか。
怪我でも負ったのではないか。
それとも───
最悪の想像が浮かぶたび、紗世は強く首を振った。
考えてはいけない。
考えたくない。
そう思っても、不安は消えてくれなかった。
「紗世?寒いのかしら?」
六条御息所の声に、紗世ははっと顔を上げた。
「い、いえ!大丈夫です。」
紗世は変わらず御息所邸への出仕を続けていた。
四条邸で塞ぎ込んでいるより、働いていた方が気が紛れた。
そんな紗世を気遣ってか、周囲も惟成の話題を口にすることはなかった。
御息所は庭へ目を向けた。
いつの間にか、白いものがちらちらと舞い始めている。
「寒いと思ったら……紗世。雪が降ってきたわ。」
「わ。本当でございますね。初雪です。」
「もうすぐ今年も終わりね。」
御息所は静かに微笑んだ。
「年が明けたら、紗世は十六歳になるのね。」
「はい。」
「早いものだわ。あなたがこの邸へ仕え始めたのは、裳着を終えたばかりの頃だったもの。」
「はい。四年になります。」
御息所は雪を見上げる紗世の横顔を見つめた。
(十六歳……。)
本来なら。
惟成が都にいれば。
二人は夫婦となっていたかもしれない。
紗世へ求婚する男は今もいると聞く。
だが兼成が全て追い返しているとも聞いていた。
御息所は小さく息を吐いた。
「かなり冷えてきたわね。蔀戸を閉めましょう。」
「はい。すぐに。」
紗世は立ち上がった。
御息所はその背を見つめながら、そっと願う。
どうか、この娘に幸せが訪れますように───と。
───四条邸
「殿。文が届いております。」
「文?誰からだ?」
兼成が顔を上げる。
「源惟成様にございます。」
「……っ!!惟成だと!?」
兼成は思わず文をひったくるように受け取った。
(姫宛ではなく、私宛か。)
急いで文を開く。
まず目に入ったのは謝罪だった。
挨拶もなく京を離れたこと。
兵衛尉として十分な引き継ぎができなかったこと。
検非違使庁にも迷惑をかけたこと。
そんな内容が並んでいる。
兼成は鼻を鳴らした。
「律儀な奴め。」
今さらそんなことを気にしているのか。
海賊相手に命を張っている男の文とは思えない。
そう呟きながら読み進める。
そして、兼成の表情が変わった。
十六歳になれば紗世は本格的な婚期を迎える。
自分のことは待たなくていい。
紗世を幸せにしてくれる男を、父である兼成が見極めてほしい。
そんなことが書かれていた。
さらに
「同封の文を姫へ渡していただきたい」
とある。
兼成はもう一枚の文を取り出した。
そこには一首の和歌が記されていた。
我を待つ 契りは捨てて咲く花の
匂ふ行く末 祈るのみかな
兼成は目を閉じた。
「馬鹿者が……。」
待つな。
自分との約束は忘れろ。
自分を待たず、幸せになれ。
そう言っているのだ。
紗世がどれほど惟成を想っているか。
惟成がどれほど紗世を想っているか。
兼成は知っている。
だからこそ、この歌の重みが痛いほど分かった。
しばらく無言で歌を見つめた後、兼成は静かに息を吐いた。
「こんなものを渡したら、あの娘は泣くぞ……。」
それでも。
渡さぬわけにはいかなかった。
惟成が命を賭して送ってきた文なのだから。
紗世が六条御息所邸から帰ると、栄が待っていた。
「姫様。殿がお呼びです。」
「父上が?」
紗世は首を傾げた。
いつもなら兼成の方から紗世の部屋へ来る。
わざわざ自分が呼ばれることは珍しい。
「大事なお話とのことです。」
「そう……。」
紗世は少し不思議に思いながら兼成の部屋へ向かった。
(いつもは父上の方から来るのに……。何かあったのかな。)
御簾を上げる。
「紗世にございます。」
「入れ。」
兼成の声は妙に硬かった。
「座りなさい。」
紗世は静かに中へ入り、兼成の前へ座る。
その表情には、いつもの娘への甘さがなかった。
思わず背筋が伸びる。
兼成はしばらく黙ったまま紗世を見つめていた。
そして静かに口を開く。
「惟成から文が来た。」
「っ……!!」
紗世の息が止まった。
三ヶ月。
待ち続けた返事。
何度も文を書いた。
何度も返事を待った。
その惟成から。
兼成は一通の文を差し出した。
「読め。」
紗世は震える手で受け取る。
胸が苦しい。
嬉しいのか。
怖いのか。
自分でも分からなかった。
ゆっくりと文を開く。
兼成は黙ったまま、その様子を見守っていた。
和歌が一首。
我を待つ 契りは捨てて咲く花の 匂ふ行く末 祈るのみかな
紗世の目が大きく見開かれる。
その意味はすぐに分かった。
待つな。自分を待たず、幸せになれ。
そう言っている。
唇が震えた。
「父上……これ……。」
兼成は重々しく頷いた。
「ああ。」
そして静かに続ける。
「私の方にも文が来ておった。」
兼成は自分宛の文を差し出した。
紗世は目を通す。
そこには
紗世の幸せを願う、惟成の精一杯の想いが書かれていた。
兼成は深く息を吐いた。
「……どうする?姫。」
その問いは父としてのものだった。
惟成を待つのか。
諦めるのか。
新しい道を選ぶのか。
兼成は静かに娘を見つめた。
(……泣くか……?)
そう思った。
いや。
むしろ泣いてくれた方が良いのかもしれない。
三ヶ月もの間、不安を抱え続けてきたのだ。
ここで泣けば少しは楽になる。
兼成はそんなことを考えながら娘を見守った。
だが。
紗世は泣かなかった。
俯いていた顔がゆっくりと上がる。
その目に涙はない。
代わりに、瞳の奥に、小さな火が灯っていた。
兼成は思わず息を呑む。
それは悲しみに沈んだ者の目ではない。
何かを決めた者の目だった。
紗世は真っ直ぐ兼成を見た。
「父上。」
静かな声だった。
けれど迷いはない。
「お願いがあります。」
その声音には、悲しみでも戸惑いでもなく。
覚悟だけが宿っていた。




