第229話 慟哭
⸻しばらくして
「先ほどの話は何だったのだ?」
源氏の君は傍に控えていた家司・為忠へ声を掛けた。
為忠は膝をついて進み出る。
「左兵衛尉・源惟成様なのですが……瀬戸内海海賊追捕使の拝命を受け、昨日の朝、京を立たれました。」
「何だと!!?」
源氏の君は思わず声を荒らげた。
そして隣の惟光を見た。
「惟光!!惟成が追捕使の任を受ける話などあったのか!?」
惟光も目を見開いていた。
「い、いえ……私も今、初めて知りました。」
「父であるお前も知らなかっただと!?その任は誰からの拝命だ!?」
頭中将も身を乗り出した。
「恐れ多くも主上御自らとか……。先の追捕使である橘氏が討死され、讃岐の本営が混乱を極めているためだそうです。恐らく惟成殿も、拝命式の前日に知らされたのでしょう。」
「それにしてもだ!拝命から翌日に出立など有り得んだろう!!」
「そ、それはそうなのですが……。とにかく急げ、讃岐へ向かえの一点張りだったようで……。主上のご命令では逆らえますまい。」
「和泉殿……。」
源氏の君は拳を握った。
────四条邸
紗世は帰ってくるなり真砂へ言った。
「ただいま、真砂!文!文を書くから道具持ってきて!急いでね!」
とにかく惟成に会わなければ。
その一心だった。
「紗世様……あの、文はどちらに……。」
真砂の表情は暗い。
「私が文を書く相手なんて惟成しかいないでしょ!謝らなくちゃ!!」
「………っ」
真砂は言葉に詰まった。
「………真砂?どうしたの?」
「あ……の………惟成様は今、京にはおられません。」
「京にいない?仕事でどこかへ行ってるの?」
「……ええ。」
「そう……。それなら惟成の邸へ届けてもらって、帰ってきたら読んでもらうよ。」
紗世は少し肩を落とした。
「いえ、そうではなく……」
真砂が言いかけた時だった。
「惟成は追捕使の任を受け、当分京には帰れぬ。」
兼成が部屋へ入ってきた。
「追捕使……って何?え……当分って?ひと月?……もしかして半年くらい?」
兼成は悔しそうに目を伏せた。
「瀬戸内海海賊の追捕使だ。海賊討伐の任を受けた。海賊を討つまで京には帰れぬ。」
紗世の表情が固まる。
「え……討伐するまでって……海賊討伐ってどれくらいかかるの……?」
「そればかりは分からぬ。ただ……瀬戸内海の海賊は十年以上、朝廷の悩みの種だ。今回惟成に拝命が下ったのは、先の追捕使が讃岐沖で討死し、讃岐の本営が混乱に陥ったからだ。」
紗世の背筋を冷たいものが走った。
「討伐するまでって……。
海賊は十年以上討伐されてないってこと……?しかも前任者が……討死……?」
手が震える。
「じゃ……じゃあ惟成は何年も帰ってこない可能性があるってこと……?」
「………うむ。」
「それどころか……し……死んじゃう可能性も……?」
涙がこぼれ落ちた。
兼成は苦しそうに娘を見た。
「本当なら、もう少し落ち着いてから話そうと思っていた。」
低い声だった。
「だが、お前は帰ってきたその足で惟成に会いに行こうとしていた。隠したままにはできなかった。」
「惟成は……もう、行っちゃったの……?
二度と、会えないかもしれないのに……?」
紗世は唇を震わせた。
「……惟成は、それを覚悟した上で任を受けたはずだ。」
部屋に重い沈黙が落ちる。
兼成が口を開いた。
「………真砂。」
「はい。」
「姫を頼む。」
「かしこまりました。」
兼成は静かに部屋を後にした。
紗世は俯き、涙を零し続ける。
「紗世様……」
真砂は背中に手を添えた。
「まっ……真砂っ……私っ」
「はい。」
「惟成に……酷いこと言ったの……」
「ええ。」
「大嫌いって……顔も見たくないって……」
「………。」
「惟成と交わした最後のまともな会話で……嫌いって……」
「本心ではないと、惟成様は分かっておられます。」
「それでもっ……最後に言った言葉は……惟成を傷付けた……っ」
涙で声が途切れる。
「嘘なのっ……」
「分かっております。」
「大好きなの……っ……惟成が……」
「ええ。」
「謝りたいの……!謝りたい!!!何でっ!!どうして……!!!」
「惟成様は、必ず帰ってこられます。」
「でも、十年以上海賊はいて……前任者も討死なんだよ……!!?」
「……それは……」
「惟成はっ……強いけど、まだ十代で……若くて……海賊相手なんて、きっと初めてで……っ」
紗世の声が大きくなる。
「惟成、死んじゃったらどうしよう……っ!!」
「紗世様……っ」
「惟成死んじゃったら、私、どうしたらいいの!!?謝ってない!!大嫌いなんて嘘って伝えてない!!好きだって……惟成が好きだって伝えてない!!!
いやだああああああああああ!!!!」
紗世は真砂に縋るようにして泣いた。
その日。
紗世が泣き疲れて眠るまで、四条邸には慟哭が響いていた。
───惟成出立後の京
源惟成が瀬戸内海海賊追捕使として都を去ったという知らせは、驚くほど早く京中へ広がった。
都一の武芸者。
若くして左兵衛尉を務める武官。
容姿も整い、女房や姫君達の人気も高い。
その惟成が、いつ戻れるかも分からぬ危険な任へ赴いたのである。
当然、都の女達は大騒ぎになった。
「本当なの?」
「ええ。本当に讃岐へ向かわれたそうよ。」
「まあ……。」
「海賊追捕使なのでしょう?」
「恐ろしいわ……。」
女房達は顔を見合わせた。
「和泉様もお気の毒に。」
「本当に。」
「あのお二人、恋仲だったのでしょう?」
しかし、その一方で
「……でも。」
一人の女房が小さく言った。
「和泉様も少しは思い知ったのではなくて?」
「おやめなさい。」
「だってそうでしょう?あれほど立派な殿方なのに。」
「そういう話ではありません。」
「けれど、和泉様が羨ましかった方も多いのではなくて?」
御簾の向こうでは姫君達も似たような話をしていた。
「源兵衛尉様ほどの殿方、なかなかおりませんもの。」
「ええ。」
「和泉様が羨ましかったわ。」
「今となっては、お可哀想だけれど……。」
同情する者もいれば、密かに嫉妬していた者達は、複雑な思いで噂を聞いていた。
京の評判とは恐ろしいものである。
人の不幸を憐れみながら、どこか安心する者も少なくなかった。
そして、惟成が都を離れたことで、別の動きも起きていた。
四条邸へ届く文が急増したのである。
「源兵衛尉は都を離れたそうだ。」
「本当か?」
「讃岐へ向かったらしい。」
「ならば和泉殿は今、お一人ということになるな。」
「文を差し上げても問題あるまい。」
そんな会話があちこちで交わされていた。
都での紗世の評価は、慎み深く、身分もそれほど高くはない。
しかし、六条御息所の信頼は厚い。
源氏の君や葵の上にも気に入られている。
頭中将とも親しい。
陰陽頭とも縁がある。
さらには飾り髪の流行まで生み出した。
若い貴族達から見れば十分に魅力的な女性だった。
これまでは惟成という存在がいた。
誰も公然とは言わなかったが、
「源兵衛尉が怖い」
という理由で近付けなかった男は少なくなかった。
しかし今、都から惟成がいなくなった。
「今なら。」
そう考える男達は多かった。
だが四条邸に届いた文は、ほとんど兼成の手によって突き返された。
「姫は病で伏せっておられる。」
「今はお会いできぬ。」
「文も受け取らぬ。」
容赦はなかった。
何人目かの使者を追い返した後。
兼成は盛大なため息を吐いた。
「まったく……。」
文の山を睨み付ける。
「姫が泣いている時に何を考えておる。」
惟成が去ってからの紗世を、兼成は見ていた。
食も細くなった。笑顔も減った。
ふとした瞬間に涙を零している。
それほど想っている相手なのだ。
そんな時に文を送り付ける男達に腹が立った。
「惟成め……。」
兼成はぼそりと呟く。
「やはり、お前が一番まともだったではないか。」
権勢目当てでもない。
源氏の君との縁目当てでもない。
あの男だけは最初から紗世本人を見ていた。
それを今さらのように思い知らされる。
兼成は大きく息を吐いた。
「必ず帰って来い。」
誰に聞かせるでもなく。
静かにそう呟いた。




