第227話 突然の拝命
───左兵衛府
惟成が左兵衛府へ戻ったのは、戌の刻を回ってからだった。
馬を預けようとした時、後ろから声が掛かった。
「源左兵衛尉様。菅原左兵衛佐様がお呼びです。急ぎの話とのこと。お戻りになられたら、すぐ来るようにと。」
「分かった。」
短く答え、惟成は左兵衛佐の部屋へ向かった。
(今日、仕事を放り出したことへの咎めか……。)
そう思ったが、胸の奥に小さな違和感が残る。
ただの叱責ならば、わざわざ「急ぎ」とは言うまい。
部屋の前に立ち、声を掛けた。
「菅原左兵衛佐様。源左兵衛尉、参上いたしました。」
「入れ。」
簾を開けた惟成は、一瞬目を見開いた。
そこには菅原左兵衛佐だけでなく、さらに上官である左兵衛督まで座していたからだ。
(左兵衛督様まで……。)
胸騒ぎが強くなる。
「座れ。」
「は。」
惟成が座ると、菅原左兵衛佐が口を開いた。
「源。お主は正式に瀬戸内海海賊追捕使に任命された。」
「海賊……追捕使に?」
「ああ。」
菅原は重々しく頷く。
「先の追捕使であった橘殿が、讃岐沖で討たれた。」
惟成の眉がわずかに動いた。
「指揮官を失ったところへ海賊どもが攻勢を強めておる。讃岐の本営は混乱を極め、一日も早く新たな追捕使を寄越せとの報せが続いている。」
「瀬戸内海の海賊は十年以上前からの悩みの種だ。放置すれば物流は滞り、朝廷への献上品にも影響が出る。」
そこで左兵衛督が扇を閉じた。
「次の追捕使として、そなたの名が挙がった。」
「私の……。」
「近頃、武勇の誉れ高きそなたならば任せられると判断されたのだ。」
そして左兵衛督は続けた。
「しかも。」
部屋の空気が変わる。
「この任命は、主上自らの御意である。」
惟成は思わず顔を上げた。
「主上の……?」
「右大臣様から、そなたの日頃の働きと実績を聞かれたそうだ。」
左兵衛督は静かに言った。
「そして主上は仰せになった。
『今の瀬戸内海を任せられるのは、源左兵衛尉しかおるまい』とな。」
惟成は深く頭を下げた。
「身に余る光栄にございます。」
「瀬戸内海海賊追捕使。受けてくれるな?」
「主上の御意であるならば。」
惟成は迷わなかった。
「謹んでお受けいたします。」
「うむ。」
左兵衛督は満足そうに頷いた。
「讃岐への出立は、いつでございましょう。」
惟成の問いに、菅原左兵衛佐が困ったように視線を落とした。
「それが……。」
言い淀む。
その代わりに左兵衛督が口を開いた。
「明日だ。」
「……明日?」
「明日、辰の刻に主上から直々に拝命を受ける。その後、ただちに都を発て。」
惟成は思わず目を見開いた。
「明日……でございますか?」
脳裏に、昼間の光景がよぎる。
ずぶ濡れのまま立っていた紗世。
泣きそうな顔。
何かを言おうとして、結局言えなかった顔。
だが惟成は、その思考を押し込めた。
「讃岐の本営は混乱を極めていると言ったであろう。」
左兵衛督は立ち上がった。
「急ぎなのだ。必要な物は現地で揃える。どうしても必要な私物があるなら、後から届けさせればよい。」
そして言い切った。
「話は終わりだ。出立の支度をせよ。」
左兵衛督はそのまま部屋を出て行った。
残された菅原は、深く息を吐く。
「すまぬな、惟成。」
「……。」
「私もあまりに急だと申し上げたのだが、聞き入れてはもらえなかった。」
「いえ。」
惟成は首を振った。
「主上の御意であれば従うまでです。」
菅原は少し迷うように視線を落とした。
「しかし惟成。」
「は。」
「四条邸の姫はどうする。」
惟成の肩がわずかに揺れた。
「惟光から聞いておるぞ。」
「……。」
「その姫との将来も考えている、と。」
沈黙が落ちた。
「追捕使は海賊を討伐するか、死ぬかでしか任を解かれぬ。」
菅原の声は静かだった。
「討伐が長引けば、数年は都へ戻れぬ。」
惟成は目を閉じた。
紗世の顔が浮かぶ。
笑顔。
怒った顔。
泣き顔。
そして今日の、ずぶ濡れの姿。
長い沈黙の後。
惟成は静かに言った。
「……それが武官の役目でございましょう。」
「惟成……。」
「私は武官です。」
ゆっくりと目を開く。
「武官の役目を全うするだけです。」
菅原は何か言いかけ、やがて諦めたように息を吐いた。
「そうか。」
しばらくして立ち上がる。
「それでも最低限の準備は必要だ。今日は早く帰れ。」
「は。」
惟成は深く一礼した。
部屋を出る。
廊下へ出ると、夜風が吹いた。
昼間のことを思い出す。
ずぶ濡れのまま立ち尽くしていた紗世。
泣きそうな顔。
――二度とするな。
それしか言えなかった。
惟成は拳を握り締めた。
だが、もう会う時間は残されていなかった。
───右大臣邸
夜も更けた頃。
右大臣は静かに酒杯を置いた。
目の前には清原有季が平伏している。
部屋には他に誰もいない。
重苦しい沈黙だけが漂っていた。
やがて右大臣が口を開く。
「失敗したそうだな。」
有季の肩がわずかに震えた。
「……申し開きもございません。」
「申し開きなど求めておらぬ。」
静かな声だった。
だが、その静けさがかえって恐ろしい。
「左大臣の娘も若君も生きておる。」
「……は。」
「源氏の君も頭中将も駆け付けた。」
「……は。」
「しかも口封じに殺すどころか、生き残った者が多数いるとか。」
右大臣は有季を見下ろした。
「お主は何のために長年わしに仕えてきた。」
有季は答えられない。
「失敗は誰にでもある。」
右大臣はそう言った。
有季は思わず顔を上げそうになる。
しかし次の言葉で血の気が引いた。
「だがな、有季。」
右大臣の目は氷のように冷たかった。
「失敗した上に、生き残りまで出した。」
「……。」
「賊どもは捕らえられれば口を割る。」
「申し訳ございません。」
「申し訳ないで済むなら検非違使も要らぬ。」
有季は額を畳に擦り付けた。
右大臣は立ち上がる。
ゆっくりと有季の前まで歩いた。
「三十年近くか。」
「……。」
「若い頃から使ってやった。」
「……は。」
「だからこそ、お主に任せた。」
右大臣の声には怒りよりも失望が滲んでいた。
「だが、お主は老いた。」
有季は唇を噛む。
反論できなかった。
「人は老いる。」
右大臣は淡々と言う。
「それ自体は罪ではない。」
そして。
「老いたことに気付かぬことが罪なのだ。」
有季の拳が震えた。
「今日をもって、お主はわしの下を去れ。」
「───!」
有季は息を飲んだ。
「右大臣様……。」
「二度と言わせるな。」
冷たく言い放つ。
「お主に任せられる仕事はもう無い。」
「……。」
「隠居でもするがよい。」
有季はしばらく動かなかった。
やがて深く頭を下げる。
「……長きに渡り、お仕えできましたこと。」
声が震える。
「誠に、幸せでございました。」
右大臣は答えなかった。
有季は最後に一礼すると、静かに部屋を出て行った。
妻戸が閉まる音がする。
部屋には再び静寂が戻った。
右大臣は酒を注ぐ。
そして一口飲んだ。
「愚か者め。」
小さく呟く。
有季は確かに失敗した。
だが完全な失敗でもない。
右大臣はゆっくり口元を歪めた。
「源惟成。」
都一の武芸者。
若く、忠義に厚く、厄介な男。
もし左大臣や源氏の君の側につけば、いずれ障害となる存在だった。
だが今は違う。
瀬戸内海。
海賊追捕使。
いつ終わるとも知れぬ任。
前任者は討死した。
帰還できる保証などない。
右大臣は酒杯を傾ける。
「少なくとも、都からは消える。」
それだけでも十分だった。
「海賊に討たれるもよし。生き残っても数年は戻れまい。」
ゆらり、と灯火が揺れる。
右大臣の顔に薄い笑みが浮かんだ。
「さて、これで盤上の駒が一つ減ったな。」
静かな夜だった。
だが右大臣の胸中には、久方ぶりの満足感が広がっていた。




