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第226話 月下の悔恨

───宇治にある左大臣家縁の寺


紗世と源氏の君、そして頭中将が乗った馬が門前に姿を現した。


「源氏の君でございます!! 源氏の君がいらっしゃいました!!」


門衛が大声で叫ぶ。


その声を聞きつけ、葵の上に仕える女房達が姿を現した。


「源氏の君!! 頭中将様も!!」


そして、源氏の君の後ろにいた紗世を見つけると、


「和泉!!」


「和泉、無事だったのですね!!」


歓喜の声が上がった。


やがて廊下の奥から、夕霧を抱いた葵の上が姿を現す。


「……っ、源氏の君!!」


「葵!! 夕霧!!」


源氏の君は駆け寄った。


「ああ……葵……っ。夕霧も……無事で良かった……!!」


そう言うと、葵の上を夕霧ごと強く抱き締めた。


「源氏の君、それだと北の方様と若君まで濡れてしまいますよ。」


後ろから紗世が冷静に言う。


その声に、葵の上がはっと振り返った。


「和泉!!」


葵の上は夕霧を女房へ預けると、そのまま紗世へ抱きついた。


「良かった……本当に良かったわ……!」


ぽろぽろと涙が零れる。


「無事で……本当に良かった……!」


「北の方様、私もずぶ濡れですので、濡れてしまいますよ!」


慌てて離れようとするが、葵の上は抱き締めたままだった。


「そんなこと……大したことではないわ。」


涙を浮かべながら、葵の上は微笑んだ。


「あの……姉上。私もおります。」


頭中将が横から口を挟む。


葵の上はようやくそちらを見た。


「まあっ! 頭中将! あなたもずぶ濡れではありませんか!」


そして夕霧を見て、


「早く着替えてらっしゃい。夕霧が濡れてしまうわ。」


「姉上……源氏の君や和泉殿と対応が違いやしませんか? これでも一応、血を分けた弟ですよ?」


その言葉に周囲の緊張がふっと解け、笑いが広がった。


「湯殿を使うわ。三人分の湯を用意してちょうだい。」


葵の上は傍に控える女房へ命じた。


「ここにも湯殿を作ったのですか?」


紗世は驚いて尋ねる。


「ええ。父上が湯殿をたいそう気に入ってしまって……。自分が滞在する可能性のある左大臣家縁の場所には、ほとんど湯殿が作られたわ。」


葵の上は少し呆れたように言った。


(でも、このタイミングでお風呂に入れるのはありがたい! 左大臣様、ありがとうございます!)


紗世は心の中で左大臣へ手を合わせた。



三人が湯に入り、着替えも終えると、ようやく落ち着いて話ができるようになった。


源氏の君と頭中将は、宇治へ駆けつけた経緯を語った。


そして紗世もまた、賊に追われ、山中を逃げ回り、源氏の君達と合流するまでの経緯を説明した。


その途中――


御簾の向こうから、ぽとりと扇を落とす音が聞こえた。


「いっ……和泉……。」


葵の上の声が震える。


「崖から……川へ飛び込んだ……ですって……?」


その身体がふらりと揺れた。


「あ、でも! 川は十分な深さがありましたし、流れも緩やかでしたので、飛び込んでも死にはしないと――」


「普通は飛び込む時点で失神ものだ。」


頭中将が呆れたように言った。


(平安時代の貴族が豆腐メンタルなだけだと思うんだけどなぁ……。)


紗世は心の中でそう呟いた。



しばらくして、源氏の君が静かに口を開いた。


「葵。二条邸へ戻ろう。」


その腕の中では夕霧が気持ち良さそうに眠っている。


「少し身体には負担かもしれぬ。だが……私の知らぬところで、葵や夕霧がこのような目に遭うのは耐えられぬ。」


葵の上も頷いた。


「ええ。それは私も思いました。」


そして少し考え、


「ですが、別邸にはまだ荷物も残っております。明日の朝、別邸へ戻り支度を整えて……早くとも二条邸へ帰るのは明後日になりましょう。」


「うむ。それで良い。」


源氏の君は迷いなく答えた。


「二条邸へ帰るまで、私も葵と夕霧の傍にいよう。」


「政務は? 大丈夫なのですか?」


葵の上が問う。


すると源氏の君は、当たり前のように答えた。


「葵と夕霧以上に大事な政務などあるか。」


「まあ。」


葵の上は思わず笑みを零した。


その穏やかな笑顔を見て、ようやく皆の胸から張り詰めていたものが少しだけ解けたのだった。



───夜


寺はすっかり静まり返っていた。


昼間の騒ぎが嘘のようだった。


紗世は一人、縁側に腰を下ろしていた。


遠くから虫の声が聞こえる。


そっと自分の頬へ触れた。


昼間、惟成に叩かれた場所。


もう痛くはない。


けれど胸の奥が、ずっと痛かった。


「……。」


目を閉じる。


思い出すのは、山中で追われた時のことだった。


太刀を持った男達。


「見つけ次第、殺せ!」


という怒号。


橋が落ちていた時の絶望。


崖の縁に立った時の恐怖。


あの時は必死だった。


葵の上と夕霧を逃がさなければならない。


そのことしか考えていなかった。


だから飛び込めた。


怖くなかったわけではない。


ただ、考える暇がなかったのだ。


だが今になって思う。


もし、あの川底に岩があったら。


もし、流れがもっと速かったら。


もし、頭を打っていたら。


自分は死んでいたかもしれない。


背筋がぞくりと震えた。


「……危なかったんだ。」


今更のように実感する。


そして同時に思い出した。


肩で息をしながら駆け付けてきた惟成の姿を。


汗で乱れた狩衣。


息を切らした顔。


馬を飛ばしてきたせいで額に張り付いた髪。


そして――


自分を見た時の表情。


怒りではなかった。


安堵でもなかった。


あれは、恐怖だった。


(……惟成は、私が死んでしまっているかもしれないと思ったんだ。)


そう考えた瞬間、胸が締め付けられた。


惟成は最初から反対していた。


宇治へ行くなと言った。


危険だと言った。


何度も止めた。


それなのに自分は。


『大嫌い』


そう言った。


唇を噛む。


「最低だな……私。」


ぽろり、と涙が落ちた。


もし立場が逆だったら。


惟成が命を捨てるような真似をしたら。


自分はどう思っただろう。


きっと怒る。


泣く。


そして怖くなる。


二度と会えなくなるかもしれないと思うから。


紗世は膝を抱えた。


「会いたいな……。」


昼間もそう思った。


今はもっと強く思う。


会って謝りたい。


ちゃんと話したい。


顔を見て伝えたい。


「心配かけてごめん。」


違う。


それだけじゃない。


「惟成の言う通りだった。」


それも違う。


胸の奥から浮かんできた本当の言葉は、一つだった。


「大嫌いなんて言って、ごめんなさい。」


涙がまた落ちる。


「……大好き。」


夜風が静かに吹いた。


「何があっても、それだけは変わらないよ……。」


惟成に会ったら伝えよう。


怒られてもいい。


呆れられてもいい。


許してもらえなくてもいい。


それでも、ちゃんと伝えよう。


紗世は月を見上げた。


「だから……帰ったら、ちゃんと謝る。」


その時の紗世は、まだ知らなかった。


その願いが、すぐには叶わなくなってしまうことに。

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