第225話 もの言はぬ情
源氏の君と頭中将は宇治の別邸に到着したが、別邸は荒らされ、誰もいなかった。
(……っ葵……夕霧……!)
源氏の君は青ざめた。
邸内を見ると、西の裏口へと足跡が集中しており、そこから逃げ、また賊も追ったのだと推察した。
西の裏口を出れば、すぐ山。
山の中から大勢の気配を感じ、源氏の君と頭中将は山中へと入っていった。
山へ入り、四半刻が経とうとした頃
「源氏、あれを見ろ!!」
頭中将が鋭く声を上げ、前方を指差した。
その先――崖の上に人影があった。
人影は、着ていた袿を脱いでいるようだった。
その袿の色は、白と紫。
「……葵?」
源氏の君の顔色が変わる。
人影は脱いだ袿で何かを包み、さらに別の衣を小さく丸めているように見えた。
そして――
白と紫の袿と、その小さく丸めた物を川へ投げ込んだ。
「あれは……姉上か!?」
頭中将が叫ぶ。
「多分そうだ! 今投げた袿は、私が葵に贈ったものだ!」
源氏の君がそう言った次の瞬間だった。
その人影は、崖を飛び降りた。
「葵ーーーーーーっ!!!!」
「姉上ーーーーーーーっ!!!」
二人は馬腹を蹴り、崖の麓を目指して駆け出した。
⸻
「おい! こっちで水音がしたぞ!!」
つい先ほどまで紗世がいた場所へ、次々と賊たちが集まってきた。
「おい! あれを見ろ!!」
一人が崖下を指差す。
その先を流れる川。
下流の方には、白と紫の袿が浮かんでいた。
その傍らには、産着に包まれたらしき物も流れている。
「……逃げられぬと悟り、母子で身投げしたか。」
「下流へ向かうぞ。死体を引き上げる。」
そう言うと賊たちは一斉に下流へ向かって駆けていった。
⸻
「葵!!」
「姉上!!!」
源氏の君と頭中将は崖下の川辺へ到着すると、馬を飛び降りた。
「葵!! 夕霧!! どこだ!!」
「姉上! 返事をしてください! 姉上!!」
必死に呼びかける。
すると――
崖下の奥。
水草と木々が生い茂る茂みが、ゆらりと揺れた。
「葵!?」
源氏の君と頭中将は、水しぶきを上げながら川へ入っていく。
茂みの陰から見えたのは、黒髪と白い単だった。
その人物は、木箱を浮き具代わりにしながら、体に絡まった水草を外そうとしている。
「葵!」
「姉上!」
二人は急いで近寄り、その人物を両側から支えた。
そして一気に引き上げた。
ザバッ――!
「っげほっ!!
うえっ……水草、口に入ったぁ……」
静寂。
しばしの沈黙。
源氏の君と頭中将は、目の前の顔を見つめた。
そして同時に叫ぶ。
「和泉殿!!!!???」
「源氏の君、頭中将様! どうしてここに!?」
「どうしてって……」
頭中将は言葉を失った。
すると紗世は、はっとしたように顔を上げる。
「あ!! 北の方様と若君は無事なはずです!
確か宇治には左大臣家縁のお寺があると聞いていますが……そちらにいるかもしれません!! 急ぎましょう!!」
「いやいやいやいやいや!!!」
頭中将が思わず声を上げた。
「和泉殿、大丈夫なのか!? 崖から飛び降りただろう!?」
「……あ、見てました?」
源氏の君と頭中将は揃って空を仰いだ。
何とも言えない沈黙が流れる。
やがて源氏の君が額を押さえながら言った。
「……まずは、川から上がろう……」
「そ……そうですね……」
⸻
三人とも、ずぶ濡れだった。
紗世に至っては頭のてっぺんからつま先までびしょ濡れである。
「今日、暑くて良かったです。」
「和泉殿……言うことはそれだけか……?」
頭中将が呆れたように言った。
紗世は苦笑しながら衣を絞る。
水がぽたぽたと地面へ落ちた。
馬に乗ろうとした、その時だった。
遠くから蹄の音が聞こえてきた。
ザカッザカッザカッ――
速い。
かなりの速さでこちらへ向かってくる。
そして、その馬を先導するように、一羽の大きな蝶が飛んでいた。
蝶は真っ直ぐ紗世のもとへ飛んでくると、その肩先へ静かにとまった。
「……!」
紗世が目を見開く。
「惟成!」
源氏の君が声を上げた。
「この蝶は……陰陽頭様の式神か!」
惟成は、葵の上から「紗世が宇治の山中で賊に追われている」との知らせを受けるや否や、すぐさま四条邸へ向かった。
そして紗世が普段身につけていた袿を借り受け、陰陽頭のもとへ赴いた。
その袿を頼りに式神を放ってもらい、居場所を探らせたのである。
そうして式神の導きのまま、ここまで馬を飛ばしてきたのだった。
惟成は肩で息をしていた。
額からは汗が流れ落ちている。
馬を駆け続けたせいで、狩衣も乱れていた。
惟成は馬を降りる。
そして何も言わず、ずぶ濡れの紗世を頭の先から足元まで見た。
白い単は水を吸って肌に張り付き、髪も滴を落としている。
その姿は痛々しいほどだった。
「………っ。」
紗世の胸が締め付けられる。
謝らなければ。
そう思った。
だが言葉が出てこない。
惟成は無表情のまま歩み寄る。
「こ……惟成……っ」
次の瞬間。
パシンッ!
乾いた音が響いた。
惟成の平手が、紗世の頬を打ったのだ。
源氏の君も頭中将も息を呑む。
惟成は紗世を見つめたまま、低く言った。
「…………二度とするな。」
それだけだった。
怒鳴りもしない。
責め立てもしない。
ただ、その一言だけ。
そして惟成は源氏の君と頭中将へ向き直った。
「私は仕事を途中で抜けてきましたので……これで失礼します。」
一礼する。
それ以上は何も言わない。
紗世とも目を合わせなかった。
そのまま馬へ乗ると、踵を返して走り去っていった。
「あ……えと……和泉殿……」
頭中将が気まずそうに声を掛ける。
紗世の目には涙が溢れていた。
「いいんです。」
ぽつりと呟く。
「私が、悪いんです。」
涙が頬を伝った。
「都に帰ったら、ちゃんと惟成に謝ります……。」
声が震える。
「謝罪を受け入れてくれるかは、分かりませんけど……。謝らないと。」
源氏の君はしばらく黙っていた。
そして静かに頷く。
「……うむ。」
紗世の濡れた髪を見ながら、穏やかな声で続けた。
「そうだな。」




