表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
224/259

第224話 断崖の決意

───時は少し遡り

明け方・右大臣邸



頭中将は朝の身支度を整え、静かな廊を渡っていた。


東の空は白み始めていたが、邸内はまだ眠りの気配を残している。


ふと目を向けると、右大臣の部屋に灯りが見えた。


(義父上……もう起きておられるのか。)


そう思った時だった。


一人の男が、人目を忍ぶように右大臣の部屋へ入っていく。


頭中将は足を止めた。


有季だった。


右大臣の側近の一人。


こんな時刻に、わざわざ周囲を気にしながら部屋へ入る様子に違和感を覚える。


頭中将は足音を殺し、近くの柱の陰へ身を寄せた。


やがて部屋の中から声が聞こえてくる。


「今日だったな。」


右大臣の低い声。


「は。」


有季が答える。


「日が昇る頃には宇治へ到着いたします。」


「そうか。」


扇を動かす微かな音がした。


「賊役の者共には伝えてあります。」


「うむ。」


「左大臣家の姫と若君は、何を置いても殺せ、と。」


頭中将の全身から血の気が引いた。


(姉上と夕霧を……!?)


思わず声が漏れそうになり、とっさに口を押さえる。


部屋の中では会話が続いていた。


「金品目当ての賊が左大臣家別邸を襲った。」


右大臣の声は静かだった。


あまりにも静かで。


だからこそ恐ろしい。


「その混乱の中で北の方と若君が命を落とした。」


「実に不幸な出来事にございます。」


「左大臣も源氏の君も賊を憎むだろう。」


右大臣の口元が歪む気配がした。


「まことに気の毒な話よ。」


頭中将は震えていた。


怒り。


恐怖。


信じたくない現実。


だが今は怒っている場合ではない。


(急がねば。)


姉を。


夕霧を。


助けなければ。


頭中将は静かに後退り、十分に距離を取ったところで踵を返す。


そして全力で走って行った。



しかし、なおも右大臣達の密談は続いていた。


「そういえば右大臣様。」


「なんだ。」


「瀬戸内海の海賊討伐において、追捕使の任に当たっていた橘公長たちばなの きんながが讃岐沖で討たれたそうです。」


「…瀬戸内海の海賊か、粗野な愚民どもよ。」


「そこでなのですが、右大臣様。源氏側に腕が立つ厄介な武官が居たでは無いですか。」


「………!

なるほどな……。」


右大臣の口元が醜く歪んだ。


───



「源氏!!」


静かな早朝の二条邸に叫び声が響いた。


「源氏!!いるか!!」


源氏の君が驚いたように廊下へ姿を現す。


頭中将は叫んだ。


「宇治へ行くぞ!!」


「何だ!?」


「姉上と夕霧が危ない!!」


源氏の君の顔色が変わった。


「葵と夕霧が!?」


「説明は道中だ!!馬を出せ!!」


二人は馬へ飛び乗る。


そして宇治へ向けて駆け出した。



───そして現在



葵の上は夕霧を抱きしめながら避難していた。


その途中で二人の侍を呼び止める。


「あなたは二条邸へ。」


一人の侍が頭を下げる。


「源氏の君へ伝えなさい。賊が別邸へ押し入ったこと。私は左大臣家縁の寺へ身を寄せていること。そして和泉が私達を逃がすため囮になったことを。」


「はっ!」


侍は馬を駆った。


葵の上はもう一人を見る。


「あなたは左兵衛府へ。」


「は。」


「兵衛尉の源惟成殿へ伝えて。和泉が宇治の山中で賊に追われています、と。」


侍は深く一礼した。


「承知いたしました。」


二人は駆け去る。


葵の上は夕霧を抱きしめた。


「和泉……。」


どうか無事で。


その願いだけだった。




───宇治・山中


「はあっ……はあっ……!」


紗世は山中を駆けていた。


暑い。


秋とは思えない暑さだった。


額から汗が流れ落ちる。


袿が重い。


抱えている髪飾り箱も重い。


それでも走る。


止まれば終わりだから。


「探せ!!」


「まだ近くにいるぞ!!」


賊たちの怒号が山に響く。


(何人いるの……!?)


予想以上だった。


十人どころではない。


二十人近くいるかもしれない。


まるで山狩りだ。


紗世は大木の洞を見つけ、中へ滑り込んだ。


「はあ……。」


ようやく息を吐く。


心臓が激しく脈打っていた。


「葵の上様と夕霧様……逃げられたよね……。」


そう呟く。


そして、自然と惟成の顔が浮かんだ。


「……惟成。」


苦笑する。


結局、惟成の言った通りになった。


危険だから行くな。


そう言われた。


聞かなかった。


そして本当に危険な目に遭っている。


「絶対怒ってる……。」


袖を握る。


文の返事も来ない。


顔も見たくないと思われているかもしれない。


それでも


「会いたいな……。」


ぽつりと本音が零れた。


「会いたいよ……。」


その時だった。


「足跡だ!!」


賊の声。


近い。


まずい。


紗世は飛び起きた。


そして再び走り出す。


「いたぞーーー!!」


声が上がる。


「白と紫の袿だ!!」


見つかった。


紗世は全力で駆けた。


木々を掻き分ける。


裾を持ち上げる。


転びそうになりながらも走る。


「回り込め!!」


「逃がすな!!」


声が増えていく。


包囲網が狭まっているのが分かった。


(このままじゃ囲まれる……!)


その時だった。


ふと脳裏に一つの場所が浮かぶ。


吊り橋。


病人看病のため宇治に滞在していた頃、何度か渡ったことがある。


(あの橋を渡れば……!)


向こう側へ渡ってしまえば追手は一方向からしか来られない。


今のように四方八方から追われることはない。


紗世は進路を変えた。


吊り橋へ向かう。


必死に。


ただひたすら。


そして、木々の向こうに橋が見えた。


(あった!!)


希望が灯る。


あと少し、あと少しで逃げ切れる。


だが次の瞬間、その希望は砕け散った。


「……え?」


橋がない。


正確には途中から崩れ落ちていた。


こちら側と向こう側を繋いでいた橋は途中で千切れ、谷へ垂れ下がっている。


「そんな……。」


立ち尽くした。


ここまで来て。


ようやく見つけた逃げ道だったのに。


背後から賊の声が迫る。


「どこだ!!」


「木の陰、茂みも見ろ!!」


紗世は唇を噛んだ。


崖下を見る。


川が流れている。


深い緑色の水。


流れは緩やか。


高さは十メートルほど。


(飛び込めない高さじゃない。)


怖い。


だが、他に道はない。


紗世は辺りを見回した。


太めの枝が一本落ちている。


さらに細い枝も。


十分だった。


紗世は葵の上から借りた袿を脱いだ。


白と紫の菊模様。


誰が見ても葵の上と分かる衣。


それを太い枝へ巻き付ける。


続いて髪飾り箱から産着を外した。


細い枝束へ巻き付ける。


遠目に見れば赤子を抱いているように見える。


「あっちに人影があるぞーー!!」


賊の姿が見えた。


もう時間はない。


紗世は袿を纏わせた枝を抱き上げた。


そして川へ放る。


続いて産着を巻いた枝束も投げた。


二つの影が水面へ落ちる。


紗世は単と袴だけの姿になった。


袿のまま飛び込めば助からない。


重く水を吸った袿は命取りになる。


それだけは知っていた。


大きく息を吸う。


怖い。


本当に怖い。


足が震える。


もしここで死んだら。


父は泣くだろう。母も。


真砂も。


そして


惟成は。


「……絶対に死なない。」


紗世は呟いた。


生きて帰る。


帰って惟成に謝る。


そのためにも、死ねない。


紗世は崖を蹴った。


身体が宙へ投げ出される。


風が耳元を吹き抜ける。


そして――


───ドボォォォンッ!!


大きな水音が宇治の山中へ響き渡った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ