第223話 身代わりの姫
その日は、秋とは思えぬほど暑かった。
よく晴れた空から降り注ぐ陽の光は、まだ午前だというのにじりじりと地を照らし、気温は上がり続けていた。
「今日は夏のように暑うございますね……。」
「本当ね。夏に逆戻りしたみたい。」
葵の上や紗世、他の女房たちも季節外れの暑さに、扇を動かす手が自然と増えていた。
「こんなに暑いのに……若君はよう寝られますね。」
女房が夕霧を抱き上げるが、夕霧はすやすやと眠ったまま目を覚まさない。
「この子、一度寝るとなかなか起きないのよね。夜泣きもほとんどないし……手がかからなくて助かるわ。」
葵の上は愛しそうに夕霧の頬をつついた。
穏やかな笑い声が部屋に広がる。
だが、その頃――。
左大臣家別邸の門前には、不審な男が姿を現していた。
「ここは左大臣家別邸である!先触れも無い者を通すことはできぬ!名を名乗れ!」
門衛が鋭く声を上げる。
男はへらへらと笑った。
「いやあ、先触れとやらは知りませんがねぇ。高貴なお姫様が若君をお産みになったと聞きましてな。祝いに来たんですよ。」
「お主のような者が拝謁できるお方ではない!立ち去れ!」
「そう言われましてもねぇ……。」
男は肩を竦めた。
「こちらも仕事なんでなぁ!!」
次の瞬間。
後ろ手に隠していた太刀が閃いた。
「ぐああああっ!!」
門衛が血を噴いて倒れる。
もう一人も返す刃で斬り伏せられた。
男は太刀の血を振り払う。
「お前ら!!入れ!!」
その声と同時に、塀の外に潜んでいた男たちが一斉に姿を現した。
「金目の物は根こそぎ奪え!!」
「女も連れて行け!!」
「逆らう者は斬れ!!」
賊たちは門を突破し、別邸へ雪崩れ込んだ。
―――
「きゃあああああっ!!」
「賊だ!!」
「北の方様をお守りしろ!!」
悲鳴。
怒号。
武器のぶつかる音。
奥の部屋にも騒ぎは瞬く間に伝わった。
「な、何が起きているの!?」
葵の上は夕霧を抱き上げる。
そこへ血相を変えた侍が飛び込んできた。
「無礼仕る!北の方様!賊にございます!我らが引き止めている間に急ぎお逃げください!」
「賊……!?」
葵の上の顔が青ざめる。
紗世も全身から血の気が引いた。
父と惟成が必死に宇治行きを止めた理由。
(まさか……本当に……。)
震える葵の上。
その腕の中で眠る夕霧。
紗世は二人を見つめた。
(賊の狙いは金品だけじゃない。
この二人だ。
北の方様と若君を見つけるまで、絶対に探し続ける。)
女房たちは葵の上を囲み、急いで部屋を出ようとする。
その時、紗世が口を開いた。
「お待ちください。」
「和泉!?何をしているの!早く!」
女房が叫ぶ。
紗世は葵の上を真っ直ぐ見た。
「北の方様。その袿を脱いでください。」
「……え?」
「私のと交換してください。」
場の空気が凍る。
「和泉!?」
「北の方様は女房の振りをして脱出してください。私が北の方様に扮します。」
「何を言っているの!」
葵の上が声を上げる。
だが紗世は既に自分の袿を脱ぎ始めていた。
「おそらく賊の狙いは北の方様と若君です。」
左大臣家に仕える者たちは、その言葉の意味を即座に理解した。
一人の女房が黙って葵の上の袿を脱がせ始める。
「やめなさい!!」
葵の上が叫ぶ。
「和泉はどうするの!?」
紗世は答えず、部屋の隅に置かれていた大きな髪飾り用の道具箱を引き寄せた。
櫛。
簪。
飾り布。
様々な道具が詰まった大きな箱だ。
中身をすべて床へあける。
そして夕霧の産着を何枚も巻き付けた。
抱き上げる。
遠目には赤子を抱いているように見える。
(これなら十分。)
「和泉!!」
「北の方様。」
紗世は葵の上が着ていた高価な袿を羽織った。
さらに葵の上の髪飾りまで身に付ける。
誰が見ても高貴な姫君だ。
紗世は侍へ向き直った。
「私は西側の裏口を出て山へ入ります。」
「……。」
「機を見て、『白と紫の菊の模様の袿を着た女が赤子を抱いて西へ逃げた』と叫んでください。」
「和泉!!」
葵の上が涙声になる。
「お願いだから一緒に逃げて!」
紗世は微笑んだ。
「大丈夫です。」
「どこが大丈夫なの!?」
「宇治には病人の看病で滞在していました。山にも何度も入っています。」
「そういう問題ではないわ!!」
賊の怒号が近づく。
「高価な衣を着た女を探せ!!」
「若君を見つけろ!!」
紗世の表情が引き締まった。
「皆様。」
「……。」
「北の方様と若君をお願いします。」
そう言うと。
紗世は産着を巻いた道具箱を抱えた。
そして踵を返す。
「和泉!!」
葵の上の叫びを背中で聞きながら。
紗世は裏口へ向かって走り出した。
やがて外へ飛び出した紗世を見た侍が、大声で叫ぶ。
「白と紫の菊の袿を着た女が西側の裏口から逃げたぞ!!
若君を抱いている!!
追えーーーっ!!」
賊たちの視線が一斉に西へ向く。
その隙に、葵の上は女房たちに囲まれながら、南側の小さな戸から別邸を脱出した。
振り返る。
そこに紗世の姿はもう見えない。
「……和泉……。」
葵の上の目から涙が零れ落ちた。
だが立ち止まることはできない。
若君を抱きしめながら、葵の上は南へと走った。




