第222話 幸いの翳り
───宇治・左大臣家別邸
夕霧が生まれて、ひと月が過ぎていた。
源氏の君は公務の合間を縫っては宇治を訪れ、葵の上と夕霧の様子を見に来ていた。
「見ろ!葵!夕霧が私の指を握って離さぬ!」
源氏の君は満面の笑みで我が子を見つめている。
「ふふ。父上がお好きなのでしょう。」
葵の上が微笑む。
「そうか!夕霧は父が好きか!?」
「あう。」
「聞いたか!?返事をしたぞ!」
源氏の君は嬉しそうに顔を輝かせた。
「最近は私を見ると機嫌が良い気がするのだ。」
「それは源氏の君の気のせいではなくて?」
「いや、違うな。やはり夕霧は利発な子だ。」
「まだひと月ですのに。」
葵の上は呆れたように笑った。
その時、廊下を渡る足音が近付いてきた。
「北の方様。お食事のご用意ができました。こちらへお運びしてもよろしいでしょうか?」
紗世だった。
「ええ。お願い。」
葵の上が頷く。
「そういえば、葵。」
源氏の君が夕霧を見つめながら言った。
「体の調子はどうなのだ?産後はかなり辛いと聞いておる。無理はしておらぬか?」
「ええ。」
葵の上は穏やかに頷いた。
「母からは、産後は起き上がるのも辛いと聞いておりました。私も覚悟していたのですが……思っていたほどではないのです。」
「本当か?」
源氏の君は安堵したような顔になる。
「辛ければ薬師でも陰陽師でも、すぐ呼べるようにしておるのだぞ。」
(産後の体調管理に陰陽師や祈祷師……平安時代だなぁ。)
紗世は妙に納得した。
「必要ありませんわ。」
葵の上は微笑む。
「むしろ体が軽いくらいです。きっと和泉の食事と湯殿のお陰ですわ。」
そう――
宇治では、以前紗世と鷹丸が作った古寺の湯殿が大きな評判を呼んでいた。
最初は病人の衛生管理のために使われていた。
だが、石鹸で体を洗い、首まで温かい湯に浸かる心地良さが評判となり、健康な者達にも広まっていった。
実は左大臣自身も興味本位でその湯殿を訪れている。
そして大いに感動し、自らの宇治の別邸にも同じような湯殿を作らせたのだった。
そのため紗世は、自分が考えたものが目の前に存在しているという、不思議な気持ちになることがあった。
栄養のある食事。
定期的な入浴。
そして石鹸による衛生管理。
(本当は、これが当たり前のはずなんだけどな……。)
紗世は心の中で呟いた。
現代では当然のことでも、この時代ではまだ珍しい。
だからこそ、葵の上の回復が順調なのだろう。
「この調子なら、二条邸にも早く戻れそうですわ。」
葵の上が言った。
「なに!?」
源氏の君が勢いよく身を乗り出す。
「本当か!?いつだ!?いつ帰って来られる!?」
「まあ。」
葵の上は思わず吹き出した。
「まだ決まった訳ではありませんわ。」
「だが帰れるのだろう?」
「私の感覚では、あと半月ほどかしら。」
「半月か……。」
源氏の君は少し考え、
「長いな。」
真顔で言った。
「十分早い方です。」
葵の上は苦笑する。
「吉凶の方角もありますし、陰陽師とも相談しなくてはなりませんもの。」
そして紗世の方を見た。
「和泉も早く四条邸へ帰りたいでしょう?」
「え?」
紗世は慌てて首を振った。
「私はそんな……。北の方様のお体が第一です。」
その様子を見て、葵の上はくすりと笑う。
「ありがとう。このまま順調なら、半月後くらいには都へ戻りましょう。」
「はい。」
紗世は笑顔で答えた。
しかし――
その胸の奥には、小さな不安が残っていた。
(惟成……。)
宇治へ来てから、兼成と惟成へ文を送った。
一通目は出産前。
『私を心配してくれているのは分かっている。でも、どうしても北の方様の力になりたい。』
そんな内容だった。
兼成からは返事が来た。
怒りながらも、
『行ってしまったのなら仕方ない。用心しながら北の方様に尽くせ。』
と書かれていた。
だが。
惟成からは返事が来なかった。
夕霧が生まれた後、もう一度文を出した。
それにも返事は無い。
(読んでくれているんだよね……?)
怒っているのかもしれない。
だが、それ以上に。
読んですらもらえていないのではないか。
そんな考えが胸を締め付けた。
(都へ帰っても……会いにくいな。)
寂しさを胸に抱えながら、紗世は膳を整え始めた。
穏やかな昼下がりだった。
誰もまだ、この静かな日々が長くは続かないことを知らなかった。
───右大臣邸
「例の件、どのようにするか決まったか?」
右大臣が扇をゆらりと扇いだ。
「は。当初は毒を……と考えておりましたが、毒を盛る隙がなかなかございませぬ。」
側近は頭を下げた。
「男児が生まれた今、警護も以前とは比べ物にならぬほど厳重になっております。左大臣家別邸へ入り込ませた者からも、そのような報告がございました。」
「そうか……。」
右大臣は目を細めた。
「毒を盛り、病に倒れたことにするのが一番楽だったのだがな。」
「は。」
「………予想外だったな。」
右大臣は扇を閉じ、ゆっくりと続けた。
「出産後はもっと弱っていものだと思ったのだが。」
「確かに。」
静かな声だった。
「葵の上は難産を乗り越え、男児を産み、順調に回復していると聞く。」
「はい。」
「そのような女人が突然病で死ねば、さすがに不自然だ。」
側近も頷く。
「左大臣も源氏の君も疑いますな。」
「うむ。」
右大臣は冷ややかに笑った。
「だから病は捨てる。」
部屋に沈黙が落ちた。
やがて側近が口を開く。
「では、やはり賊でございますか。」
「そうだ。」
右大臣は即答した。
「賊ならば理由はいくらでも付けられる。」
「金目当てに別邸へ押し入った、と。」
「そうだ。」
宇治の別邸は広く、警備もあるとはいえ都から離れている。
賊の襲撃という筋書きに無理はない。
「混乱の中で死人が出ても不自然ではない。」
「……。」
「証人も消せる。」
側近は深く頷いた。
確かに賊の襲撃ならば、女房や侍が何人死のうと混乱の結果で済まされる。
「賊の襲撃ならば、母子が共に命を落としても不自然ではない。」
「確かに。」
右大臣の目が冷たく細められる。
「若君が生き残るのは厄介だ。」
部屋の空気が張り詰めた。
「左大臣家の血を引き、源氏の血を引く男児。」
「将来の脅威となりますな。」
「そうだ。」
右大臣は静かに言った。
「葵の上だけでは意味がない。」
「……。」
「母も子も、この世から消えてもらう。」
側近は深々と頭を下げた。
「承知いたしました。」
右大臣は立ち上がり、庭へ視線を向ける。
秋の風が木々を揺らしていた。
「賊を集めよ。」
「は。」
「そして必ず仕留めろ。」
振り返った右大臣の目に迷いはなかった。
「一度で終わらせるのだ。」
「御意。」




