第221話 夕霧
───宇治・左大臣家別邸
若君誕生の報せは、即座に都へ向けて発たれた。
宇治の別邸は慌ただしさの中にも、どこか安堵した空気に包まれていた。
「若君様、よくお眠りですね。」
女房の一人がそう言う。
産湯を終え、清められた若君は小さな寝床で穏やかな寝息を立てていた。
その傍らでは、葵の上が疲労の色を残しながらも、幸せそうに我が子を見つめている。
「本当に……生まれたのね。」
葵の上はそう呟いた。
「はい。とても元気な若君ですよ。」
紗世が笑う。
「和泉。」
「はい?」
「ありがとう。」
葵の上は静かに言った。
「あなたが居なければ、私……きっと途中で心が折れていたわ。」
「そんなことありません。」
「あるの。」
葵の上は優しく首を振った。
「痛くて、苦しくて、何度も駄目かと思った。でも、和泉がずっと手を握ってくれていたでしょう?」
紗世は少し照れくさくなった。
「北の方様が頑張ったからです。」
「ふふ。」
葵の上は微笑んだ。
その時だった。
廊下の向こうが急に騒がしくなる。
バタバタと走る足音。
「源氏の君がお着きになられました!」
女房の声が響いた。
葵の上の目が大きく見開かれる。
「えっ……。」
紗世も思わず顔を上げた。
(早い!)
都で報せを受けて、ほとんど休まず駆けてきたのだろう。
次の瞬間。
几帳の向こうから聞き慣れた声がした。
「葵!」
源氏の君だった。
いつもは優雅で落ち着いている男が、今日は珍しく息を乱している。
急いで来たのが一目で分かった。
「源氏の君。」
葵の上の声が震えた。
「無事か。」
源氏の君は御簾の向こうからそう尋ねた。
「はい。」
「本当に無事なのだな?」
その声には安堵と不安が入り混じっていた。
葵の上は小さく笑う。
「ええ。」
源氏の君はしばらく何も言わなかった。
ようやく絞り出すように言う。
「良かった……。」
その一言に、どれほど心配していたかが滲んでいた。
紗世は思わず微笑む。
(本当に仲良し夫婦だなぁ。)
「若君様もお元気でございます。」
女房がそう告げる。
「若君……。」
源氏の君の声が少し掠れた。
女房がそっと若君を抱き上げる。
「失礼いたします。」
そして子は父へ姿を見せた。
源氏の君は息を呑んだ。
まだ小さく、赤く、頼りない命。
それでも確かにそこにいる。
自分と葵の子。
「……。」
言葉が出ない。
若君は眠ったまま小さく手を動かした。
その仕草に、源氏の君の口元が緩む。
「小さいな。」
「生まれたばかりですもの。」
葵の上が笑った。
「そうか。」
源氏の君はしばらく若君から目を離せなかった。
やがて静かに言った。
「ありがとう、葵。」
葵の上の目が潤む。
「私一人ではありません。」
「分かっている。」
源氏の君は頷いた。
「それでも礼を言わせてくれ。」
そして視線を紗世へ向ける。
「和泉殿。」
「はい。」
「葵を支えてくれたと聞いた。」
「私は少しお手伝いしただけです。」
「少しではない。」
源氏の君は真面目な顔で言った。
「本当に感謝している。」
「ありがとうございます。」
紗世は頭を下げた。
その時。
若君が小さく声を漏らした。
「ふぇ……。」
全員の視線が若君へ向く。
そして次の瞬間。
「おぎゃああああ!」
元気な泣き声が部屋に響いた。
葵の上が笑う。
源氏の君も笑った。
女房たちも笑った。
紗世も思わず吹き出した。
宇治の別邸は、若君の産声と笑い声に包まれていた。
若君の泣き声が落ち着くと、女房が優しく抱き上げてあやし始めた。
「元気なお子ですこと。」
「本当に。」
女房たちの顔にも自然と笑みが浮かぶ。
源氏の君は、その小さな姿を見つめていた。
しばらくして、紗世が首を傾げる。
「そういえば、若君様のお名前はどうなさるのですか?」
その言葉に、部屋の空気が少し変わった。
葵の上も視線を向ける。
「そうですわね。まだ決めておりませんでした。」
「左大臣様もきっとお考えになっておられるでしょうしね。」
女房の一人が言った。
すると源氏の君は小さく笑った。
「実はな。」
「はい?」
「候補なら、もうある。」
葵の上が驚いたように目を丸くした。
「もう考えていらしたのですか?」
「もし男児が生まれたなら、と思ってな。」
源氏の君は少しだけ照れたように言った。
「まだ正式に決めたわけではない。左大臣殿にも相談せねばならぬし、陰陽師にも字の吉凶を見てもらわねばならぬ。」
平安貴族にとって名は重要だった。
家の期待も、未来への願いも込められる。
「どのようなお名前なのですか?」
紗世が尋ねる。
源氏の君は若君を見つめた。
そして静かに口を開く。
「夕霧。」
その名が部屋に落ちた。
葵の上が小さく繰り返す。
「夕霧……。」
「夕暮れに立つ霧は柔らかく、静かだ。しかし、その向こうには確かに景色がある。」
源氏の君は穏やかな声で続けた。
「派手さや華やかさではなく、人を包み込み、支えるような男になってほしい。」
葵の上は目を細めた。
「素敵なお名前ですわ。」
「そう思うか?」
「ええ。」
源氏の君は少し安堵したようだった。
紗世は思わず笑みを零した。
(やっぱり夕霧だ。)
歴史が変わっても。
夫婦仲が変わっても。
この子はやはり夕霧なのだ。
そう思うと不思議な気持ちになる。
「和泉殿はどう思う?」
突然話を振られ、紗世は慌てた。
「え!?私ですか!?」
「うむ。」
「とても良いお名前だと思います。」
それは本心だった。
「若君様にぴったりです。」
源氏の君は満足そうに頷いた。
その時だった。
若君が小さな手を動かした。
まるで何かを掴もうとするように。
「まあ。」
葵の上が笑う。
「夕霧も気に入ったのかしら。」
「そうかもしれぬな。」
源氏の君の表情は柔らかかった。
普段、宮中で見せる光源氏ではない。
一人の父親の顔だった。
紗世はそんな二人を見ながら思う。
(良かった。本当に良かった。)
原作では決して見ることのできなかった光景。
夫婦で若君の誕生を喜び合う姿。
それを見られただけでも、この世界に来た意味があったのかもしれない。
だが、その時。
誰も知らなかった。
若君誕生の報せは既に都へ届き始めており――
その報せを聞いた者の中には、この誕生を祝福しない者もいることを。
宇治の別邸に満ちる幸福の裏で、静かに次の災いが動き始めていた。




