第220話 誕生
───左大臣家・宇治別邸
出産は予想よりも早く始まった。
宇治へ着いた三日後の朝。
葵の上が突然、腹を押さえたのである。
「……和泉。」
「北の方様?」
葵の上の顔色が変わっていた。
その直後。
衣の裾が濡れる。
紗世は息を呑んだ。
「破水です!」
別邸の中が一気に慌ただしくなる。
「どんどんお湯を沸かして!」
「清潔な布はこちらへまとめてください!」
「桶をもっと持って来て!」
紗世は次々と指示を飛ばした。
その横では女房たちが別の意味で慌ただしい。
「陰陽師様のお席はこちらでよろしいでしょうか?」
「護摩焚きの準備は!?」
「祝詞を奏上する方が先では!?」
(もおおおおっ!!そんなの後でいいでしょう!!)
紗世は心の中で叫んだ。
───破水から数時間
今、優先すべきは母子の命だ。
その隣では葵の上が苦しそうに息を吐いていた。
額には汗が滲み始めている。
「北の方様!」
紗世は葵の上の手を握った。
「苦しいとは思いますが、息を止めてはいけません!」
「い……き……」
「私に合わせてください!短く吸って、長く吐くのです!」
紗世はゆっくり呼吸をして見せる。
「ひっ、ひっ……ふぅ……」
葵の上も真似をした。
「ひっ……ひっ……ふぅ……」
乱れていた呼吸が少しずつ整っていく。
苦痛に歪んでいた表情も幾分和らいだ。
───
さらに時間は過ぎていった。
夜が更ける。
陣痛の間隔も短くなっていた。
「う……っ……痛い……」
葵の上が苦しげに声を漏らす。
「和泉……何かが……下りてくる感じが……」
次の瞬間。
「ああっ!!痛い!!」
部屋中に悲鳴が響いた。
「北の方様!お子が下りてきています!」
「ううっ……!」
何度も何度も陣痛が押し寄せる。
痛みに耐えながら葵の上は必死に息を整えた。
───
だが時間は無情だった。
気付けば破水からかなりの時が経ち、気付けば空が白み始めていた。
葵の上の顔には疲労の色が濃く滲んでいた。
(まずい……。)
紗世は唇を噛む。
(このままじゃ体力がもたない。)
周囲の女房たちも不安を隠せなくなっていた。
「こんなに長引くなんて……」
「北の方様のお身体が……」
「どうか御仏よ……」
紗世は葵の上の手を強く握った。
「北の方様!」
薄れかけていた意識がこちらを向く。
「私と一緒にやりましょう!」
「……和泉……」
「いきむ時はいきむ!力を抜く時は抜く!それだけです!」
紗世は力強く言った。
「大丈夫!北の方様と源氏の君のお子です!」
「……ええ。」
葵の上の目に再び光が戻る。
「産んでみせるわ。」
「はい!」
紗世は笑った。
「いきんで!」
「んんんっ……!」
「力を抜いて!」
「ふぅ……」
「もう一度!」
「うううっ……!」
何度も何度も繰り返す。
そして──
産婆が声を上げた。
「よろしゅうございます!お子の頭が見えて参りました!」
部屋の空気が張り詰める。
「北の方様!あと少しです!」
「は……い……!」
「いきんでー!!」
「っくぅううううう!!」
「その調子です!」
「力を抜いて!」
「ふぅ……」
「もう一度!」
「ううううううううっ!!」
そして。
最後の力を振り絞るように。
「あああああああっ!!」
───おぎゃあああああっ
力強い産声が響いた。
一瞬。
誰もが息を止める。
次の瞬間。
産婆が満面の笑みで叫んだ。
「生まれました!!」
歓声が上がる。
「生まれましたよ!北の方様!」
葵の上の目から涙が溢れた。
「……生まれた……?」
「はい。」
産婆は赤子を抱き上げた。
「元気な若君でございます!」
「若君……」
葵の上の頬を涙が伝う。
その隣で紗世がにっこり笑った。
「ほら。やっぱり若君でしたね。」
葵の上も笑う。
「そうね。」
そして優しく言った。
「和泉の言った通りだったわ。」
だが紗世に感傷に浸る時間はなかった。
「若君を新しいお湯と布で清めてください!」
「若君に触れる前に石鹸で手と腕をしっかり洗ってください!」
「北の方様のお着替えを!」
「新しい布をこちらへ!」
次々と指示が飛ぶ。
(ここからが大事。)
紗世は気を引き締めた。
(この時代は産後に亡くなる人が多い。だから衛生だけは絶対に妥協しない。)
「床も熱湯で清めます!」
「お湯を絶やさないでください!」
女房たちが慌ただしく動き回る。
ようやく全体が落ち着き始めた頃。
紗世は台盤所へ向かおうとした。
その時だった。
「……和泉。」
葵の上が呼び止める。
振り返ると。
疲労で青白い顔をしながらも、葵の上は穏やかに微笑んでいた。
「和泉。」
その目には涙が浮かんでいる。
「あなたがいてくれて良かった。」
紗世は足を止めた。
「和泉がずっと手を握ってくれていたから……私は最後まで頑張れたの。」
「北の方様……」
「本当にありがとう。」
紗世は胸の奥が熱くなるのを感じた。
そして深く頭を下げた。
「いいえ。」
顔を上げる。
「北の方様こそ、本当にお疲れ様でございました。」
若君は元気に泣いている。
葵の上も生きている。
その光景を見て、紗世は心から安堵した。
「後は私たちにお任せください。」
そう言って微笑み。
紗世は静かに部屋を後にした。




