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第219話 宇治に満る影

───右大臣邸


夜。


灯火だけが揺れる静かな部屋で、右大臣は文を広げていた。


傍らに控える有季が恭しく頭を下げる。


「ご報告申し上げます。左大臣家の姫君は、数日中に宇治の別邸へ移られるとのこと。」


右大臣は文から目を上げた。


「宇治か。」


「はい。」


「なるほど。」


右大臣はゆっくりと文を畳む。


有季は様子を窺いながら言った。


「いかがいたしましょう。宇治へ向かう道中であれば、人目も少なくございます。」


右大臣は即座に首を横へ振った。


「愚策だ。」


有季が顔を上げる。


「愚策……でございますか?」


「今、左大臣家の姫が死ねば何が起こる。」


静かな声だった。


有季は慎重に答える。


「左大臣家が騒ぎ立てるかと。」


「それだけではない。」


右大臣は冷たく言った。


「源氏の君も黙ってはおるまい。」


有季は黙る。


「今の源氏の君は帝の寵愛厚く、左大臣の婿だ。」


「はい。」


「その北の方が突然死ねば、左大臣家も源氏の君も徹底的に調べる。」


右大臣は指先で机を軽く叩いた。


「まして宇治へ向かう途中で襲われたとなればどうなる。」


「賊ではなく、誰かの差し金ではないかと疑われます。」


「そうだ。」


右大臣は頷いた。


「左大臣家が動き、源氏の君が動き、朝廷まで動く。」


薄く笑う。


「わざわざ自ら疑われるような真似をする必要はない。」


有季は深く頭を下げた。


「失礼いたしました。」


右大臣は簾の外へ視線を向けた。


夜の闇が広がっている。


「焦る必要はない。」


「では……。」


「子が生まれてからだ。」


有季の肩がわずかに動いた。


「出産後……でございますか。」


「そうだ。」


右大臣の声は淡々としていた。


「出産は命懸け。」


「はい。」


「母子ともに無事とは限らぬ。」


有季は黙って聞いている。


「産後の肥立ちが悪かった。」


右大臣は指を一本折る。


「病を得た。」


二本目。


「弱っていることにつけ込んだ賊に襲われた。」


三本目。


「理由など、いくらでも作れる。」


有季は思わず息を呑んだ。


右大臣はさらに続ける。


「しかも、出産後であれば周囲の関心はまず母子へ向く。」


「母子へ……。」


「そうだ。」


右大臣は頷く。


「産後は容態が急変することも珍しくない。」


「確かに。」


「もし病に伏せれば、誰もがまず産後の不調を疑う。」


有季は黙って聞いていた。


「毒を盛られたとしても、最初から毒を疑う者は少ない。」


「なるほど……。」


「仮に命を落としたとしても同じだ。」


右大臣の声はどこまでも冷たい。


「まず疑われるのは病だ。」


部屋の空気が重く沈む。


「そして。」


右大臣は目を細めた。


「子が生まれれば、左大臣家も源氏の君も、その子を守ることに追われる。」


「……。」


「生まれたばかりの子の世話、乳母の手配、祈祷、警護。」


右大臣は淡々と数えた。


「人は守るべきものが増えるほど、周囲を見る余裕を失う。しかし……赤子は弱い。母親を失った赤子を殺めるなど、造作もない。」


有季の背筋に寒気が走る。


右大臣は静かに言った。


「だから、生まれる前ではない。」


しばし沈黙が落ちる。


やがて有季が尋ねた。


「では、宇治へは手を出さぬので?」


「いや。」


右大臣は首を横に振った。


「監視は続けろ。」


「監視。」


「誰が付き添うのか。

どのような者が出入りするのか。

警護は何人か。

いつ都へ戻る予定なのか。」


右大臣の目が鋭く光る。


「すべて調べよ。」


有季は深く頭を下げた。


「承知いたしました。」


有季が退出すると、部屋には右大臣だけが残った。


灯火が静かに揺れている。


「若君か姫君、か……。」


低い声が漏れる。


もし男児が生まれれば。


左大臣家。


源氏の君。


そしてその若君。


三つが強く結び付く。


右大臣にとって最も望ましくない未来だった。


「生まれる前ではない。」


右大臣は独り言のように呟く。


「生まれてからだ。」


その声は静かだった。


だが、その奥には確かな殺意が潜んでいた。





───葵の上、宇治出立の日


「殿!殿!!!」


陽が昇り、朝餉の刻を迎えようとしていた頃だった。


真砂が慌ただしく兼成の部屋へ駆け込んできた。


「む?どうした、真砂。」


兼成が顔を上げる。


真砂は肩で息をしながら、必死に言葉を絞り出した。


「紗世様が……いらっしゃいません……!」


「なに?」


兼成が立ち上がる。


「邸のどこを探しても……お姿が見当たらないのです……!」


一瞬の沈黙。


そして――


「なっ……なにいいいいいーーーっ!!?」


兼成の絶叫が四条邸中に響き渡った。




───その頃


紗世は葵の上と共に牛車に揺られていた。


御簾の向こうでは、葵の上が大きなお腹を撫でながら静かに座っている。


(……そろそろ父上たちも気付いた頃かな。)


少しだけ胸が痛んだ。


兼成も惟成も、本気で自分を心配してくれていた。


それは十分すぎるほど分かっている。


けれど――


紗世は葵の上の腹へ視線を落とした。


(それでも私は来たかった。)


原作の葵の上……この先に待っている運命を知っている。


だからこそ


(絶対に守る。)


その想いだけは譲れなかった。


「北の方様、体調はいかがですか?」


葵の上は穏やかに微笑む。


「最近は涼しくなってきたから過ごしやすいわ。でも……少しお腹が張るかしら。」


そう言いながらも額にはうっすら汗が滲んでいた。


紗世はさりげなく様子を観察する。


「二条邸を出たのが早朝でしたから、このまま順調なら昼頃には宇治へ着くと思います。」


「そう。」


葵の上は小さく頷いた。


「それを聞いて安心したわ。」


紗世は物見の隙間から外へ目を向けた。


先頭は葵の上の牛車。


その後ろには女房たちを乗せた牛車。


さらに後方には荷を積んだ牛車が続いている。


周囲には十人以上の侍たち。


徒歩の者もいれば馬上の者もいる。


出産を控えた左大臣家の姫君を送る一行だけあって、警備は厳重だった。


(これだけ護衛がいるんだもん。)


紗世は小さく息を吐く。


(きっと大丈夫。)




───宇治・左大臣家別邸


宇治の別邸は、別邸とは思えぬほど広大だった。


幾重にも築地塀が巡らされ、庭には池や木々が整えられている。


荷物が次々と運び込まれ、


葵の上と紗世は最も奥にある静かな部屋へ案内された。


「……ふぅ。」


葵の上は脇息にもたれ、小さく息を吐いた。


数時間に及ぶ牛車の移動は、さすがに身体へ負担がかかっていた。


「北の方様、お疲れでしょう。」


「ええ。少し休みたいわ。」


「寝所を整えますね。」


紗世はすぐに動き始めた。


今回のために準備していた物がある。


それは自作の寝具だった。


平安時代の寝所は畳が基本である。


現代のような敷布団は存在しない。


しかし、


(妊婦さんが畳に直接寝るのは絶対つらいよね……。)


そう考えた紗世は、大きな布袋の中へ真綿をたっぷり詰め込み、簡易的な敷布団を作っていた。


「北の方様、こちらへ。」


葵の上は促されるまま横になる。


その瞬間。


「あら……。」


驚いたような声が漏れた。


「柔らかい……。」


「どうですか?」


「背中も腰も痛くないわ。」


葵の上は目を細めた。


「やっぱり和泉に来てもらって良かった。」


その言葉に紗世も嬉しくなる。


「そう言っていただけると作った甲斐があります。」


葵の上は安心したように目を閉じた。


ほどなくして静かな寝息が聞こえ始める。




葵の上が休んでいる間、紗世は他の女房たちと共に出産の準備を進めていた。


ただし、女房たちが気にしていることは紗世とは少し違う。


「僧都様への使いは出しましたか?」


「陰陽師殿はいつ到着されるのでしょう。」


「加持祈祷の準備を急がねば。」


皆が口にするのは祈祷や占いの話ばかりだった。


(この時代はそうだよね……。)


紗世は苦笑する。


現代なら医師や助産師の準備が最優先だ。


だが平安の人々にとっては、出産は穢れや物の怪とも隣り合わせの出来事だった。


だからこそ祈祷が重視される。


(だったら私は実務担当だ。)


お湯。


清潔な布。


産後の食事。


休養場所。


必要な物を頭の中で一つずつ確認していく。


いつ産気づいても慌てないように。


そして何より――


葵の上と、その子を守るために。


紗世は静かに拳を握りしめた。

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