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第218話 届かぬ想い

───四条邸・離れ


紗世は喚き疲れ、板敷きの床に膝を抱えて座り込んでいた。


「何で分かってくれないの……。」


ぽつりと呟く。


悔しさと悲しさが入り混じり、目の奥が熱かった。


惟成の顔が浮かぶ。


あんな顔をさせたかったわけではない。


けれど、どうしても譲れなかった。


「にゃあ。」


不意に声がした。


紗世は勢いよく顔を上げる。


明かり取りの小さな格子窓の隙間に、一匹の白猫がちょこんと座っていた。


「虎徹!」


顔がぱっと明るくなる。


「虎徹、おいで!」


虎徹はひらりと身を翻し、器用に中へ飛び降りた。


そして真っ直ぐ紗世の元へ歩いてくる。


「ふふ。」


紗世は虎徹を抱き上げた。


柔らかな毛並みが温かい。


思わず頬を寄せる。


「聞いてよ、虎徹。」


虎徹は耳をぴくりと動かした。


「惟成、酷いんだよ。」


虎徹は黙って聞いている。


「いくら心配だからって、閉じ込めるなんて酷いと思わない?」


(まあ、ここまでせねば止まらんだろうからな。)


「私、そんなに信用ないのかな……。」


(信用しておるからこそ心配しておるのだがな。)


紗世は小さく笑った。


だが、その笑みはすぐ消えた。


「……惟成はね。」


虎徹の背を撫でる。


「言葉は少ないけど、優しいの。」


静かな声だった。


「強くて、頼りになって。」


ぽつり。


「私のことを、ちゃんと見てくれて。」


ぎゅっと虎徹を抱き締める。


「本質が好きだって言ってくれて。」


胸が少し痛んだ。


「でも、今回だけは分かってくれない。」


(分かっておるよ。)


虎徹は心の中で呟く。


(お前が北の方を助けたいことも。出産が命懸けなことも。)


だが人間は、思っているだけでは伝わらない。


惟成も紗世も、その点ではよく似ていた。


「ねえ、虎徹。」


紗世が顔を上げた。


「ここから出る良い方法ないかな?」


(猫に聞くな。)


虎徹は尻尾を揺らした。


その時だった。


外から足音が近付いてくる。


ゆっくりとした足取り。


紗世は顔を上げた。


「──姫。」


聞き慣れた声だった。


「父上!」


紗世は立ち上がる。


「父上!開けて!」


妻戸の向こうから兼成の声が返る。


「開けてはやる。」


一拍。


「だが、その前に少し父の話を聞いてくれるか。」


いつもの騒がしい兼成ではない。


検非違使尉でもない。


一人の父親の声だった。


紗世は戸の前へ歩み寄る。


「……はい。」


「姫は惟成を酷いと思うか?」


「思います。」


即答だった。


「流石に閉じ込めるのは酷いです。」


「うむ。」


兼成も頷いた。


「私もそう思う。」


紗世は少し驚いた。


「先ほど惟成にも言った。やり過ぎだとな。」


ほっとしかけた時だった。


「だがな。」


兼成の声が続く。


「姫も少し酷いと思うぞ。」


紗世は黙った。


「惟成という男を、私より姫の方が知っておるだろう。」


「……はい。」


「どんな男だと思う?」


紗世は少し考えた。


「強くて。」


「うむ。」


「真面目で。」


「そうだな。」


「誠実で。」


「うむ。」


「いつも私を守ってくれて。」


兼成は静かに聞いている。


「理由もなく人を傷付けたりしない人です。」


「分かっておるではないか。」


紗世は唇を噛んだ。


「でも。」


声が強くなる。


「惟成は私の話を聞いてくれない。」


「聞いておる。」


兼成は即座に返した。


「姫が北の方様の力になりたいことも、出産がどれほど命懸けかも理解しておる。」


「だったら!」


「その上で止めておるのだ。」


紗世は言葉を失った。


兼成の声が静かに続く。


「惟成はな。」


少し笑う。


「姫が思っている以上に、姫のことを大事にしておる。」


「……。」


「傷付いてほしくない。」


「……。」


「危険な目に遭ってほしくない。」


「……。」


「いつも笑っていてほしい。」


紗世は俯いた。


「だから危険を遠ざけようとする。」


兼成は小さく息を吐いた。


「少々やり方が不器用過ぎるがな。」


思わず紗世の口元も緩む。


確かにそうだ。


惟成は昔から不器用だった。


「それに。」


兼成の声が低くなる。


「私も宇治へ行ってほしくない。」


「父上まで……。」


「政は恐ろしい。」


重い声だった。


「姫が思う以上にな。」


兼成はゆっくり語った。


政争で失脚した者。


流罪になった者。


不審な死を遂げた者。


そして、その家族。


「女人も狙われる。」


紗世は黙って聞いていた。


「まして、将来に影響する男児を産む可能性のある女人なら尚更だ。」


「……。」


「そして女人が狙われる時は、傍にいる女房や乳母も巻き添えになることが多い。」


紗世の指先が震えた。


「口封じのためにな。」


静寂が落ちる。


兼成が言った。


「そんな場所へ、大事な娘を行かせたい父親がいると思うか?」


紗世は目を閉じた。


父の言いたいことは分かる。


惟成の言いたいことも。


だからこそ苦しい。


(でも。)


葵の上は原作では死ぬ。


それだけは知っている。


(私だけは行かなきゃ。)


やがて紗世は顔を上げた。


「……分かりました。」


兼成の声が明るくなる。


「本当か!」


「はい。」


紗世は頷いた。


「行きません。」


兼成は安堵したように笑った。


「そうか!」


ガタガタ、と閂が外される。


妻戸が開いた。


「姫!」


兼成は慌てて中へ入ってきた。


「腹は減っておらんか!?寒くなかったか!?」


いつもの兼成に戻っている。


紗世は思わず苦笑した。


「大丈夫です。」


「本当か!?」


「本当です。」


そう答えながらも。


紗世は心の中でそっと呟いた。


(父上、ごめんね。でも私、やっぱり行くよ。)


虎徹だけが、その決意に気付いたように静かに目を細めていた。

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