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第217話 苦き決断

───三日後・宮中


「惟成!」


廊下を渡っていた惟成を呼び止めたのは兼成だった。


「検非違使尉様。」


惟成は足を止め、軽く頭を下げた。


「先日、お主が話していた左大臣家と二条邸周辺の不穏な情報だがな。」


「何かありましたか?」


「うむ。お主から話を聞いたその日から、不審な者の目撃が相次いでおる。」


惟成の目が細くなる。


「どのような者です?」


「刀や武器は持っておらぬ。だがな、二条邸や左大臣家の周囲を執拗に見て回っていたらしい。」


「見て回る……?」


「生垣の薄い箇所、塀の高さ、屋根の低い場所。加えて、時間ごとの人通りや警備の様子までな。」


兼成は顔をしかめた。


「巡回していた検非違使の話では、まるで賊が侵入経路と逃走経路を調べているようだったと。」


「……。」


惟成の表情が険しくなる。


虎徹の言葉が脳裏をよぎった。


──毒。

──賊。


そして虎徹に聞いた二条邸での服毒未遂。


(やはり動き始めているか……。)


「もっとも。」


兼成は続けた。


「二条邸そのものは今のところ平穏らしい。」


「平穏?」


「出産を控えておるからな。源氏の君も相当警戒しておる。邸内の警護はかなり厚いそうだ。」


惟成は黙って聞いていた。


「それでな。」


兼成は頭を掻く。


「実は姫から聞いたのだが。」


嫌な予感がした。


「北の方様が二日後に宇治の別邸へ移られるそうだ。」


惟成の眉が僅かに動く。


「そうですか。」


「そして姫も付いて行くと言って聞かぬ。」


兼成は深々とため息を吐いた。


「私は止めたのだぞ?」


「……。」


「出産は女房方だけでも十分世話ができる。わざわざ危険かもしれぬ所へ行く必要はない、と。」


兼成は肩を落とした。


「だが、『北の方様が不安がっているのに放っておけない』の一点張りよ。」


惟成は目を閉じた。


三日前。


涙を浮かべながら紗世が言った言葉が蘇る。


──嫌い。


胸の奥が僅かに痛んだ。


(だから行くなと言ったのだ。頼むから察してくれ……。)


だが、あの姫が察して引き下がるはずもない。


「まったく。」


兼成がぼやく。


「優しいのは姫の良い所なのだがな。時々、自分の身を顧みぬ。」


「……そうですね。」


惟成はぽつりと答えた。


それは兼成への返事でもあり、自分自身への返事でもあった。


「まあ、宇治へ移るのは出産のためだ。何事も起こらねば良いのだがな。」


兼成はそう言って腕を組んだ。


惟成は黙っていた。


何事も起こらない。


そう願いたい。


だが、虎徹の話と最近の動きを考えれば、とても楽観はできなかった。


(警戒だけは続けるしかないか……。)


しばしの沈黙。


そして次の瞬間。


惟成は踵を返した。


「惟成?」


兼成が呼ぶ。


だが惟成は振り返らない。


そのまま廊下を駆け出した。


「おい!どこへ行く!」


兼成の声だけが後ろから追ってくる。


惟成の足は止まらない。


紗世は今も、自分を嫌っているだろう。


会えば追い返されるかもしれない。


話すら聞いてもらえないかもしれない。


それでも。


このまま何もしないという選択だけはできなかった。


(もう一度だけだ。もう一度だけ、止める。)


惟成は走る。


向かう先はただ一つ。


四条邸だった。



───四条邸


明後日に宇治行きを控えた紗世は、その準備をしていた。


(出産がいつになるか分からないからなぁ。産後の肥立ちもどうなるか分からないし……最悪、二、三ヶ月は宇治に居ることになるかも。)


袿や単衣を仕分けながら、持って行く荷物を選んでいく。


(でも、都から宇治なら一日もかからないし。足りなければ後で取りに来ればいいかな。)


そんなことを考えていた時だった。


「紗世様。惟成様がお見えです。」


真砂の声に、紗世の肩がぴくりと動く。


(宇治行きを聞いたんだ……!)


父の兼成も止めた。


ならば惟成も止めに来るに決まっている。


「真砂!居ないって言って!」


「本人を前にして居留守とは、いい度胸だな。」


低い声がした。


見ると、惟成は既に真砂の後ろに立っていた。


「惟成……。」


紗世はじろりと睨む。


「止めに来たんでしょ?」


「なんだ。分かっているのか。」


「絶対行くから。」


惟成は小さく息を吐いた。


「真砂。」


「は、はい。」


「少し外してくれ。」


「……承知しました。」


真砂は気まずそうに部屋を出て行った。


二人きりになる。


重い沈黙が落ちた。


やがて惟成が口を開く。


「行くな。」


「絶対行く。」


「許さん。」


「宇治へ行くのに、惟成の許可なんて要らないもん。」


「危険だ。」


「父上から聞いたよ。北の方様が男児を産むことを良く思わない人たちがいて、命を狙われるかもしれないって。」


「そこまで分かっていて、なぜ行こうとする。」


「出産は命懸けだから!」


紗世は声を上げた。


「北の方様はこの子だけは絶対に守るんだって言ってたの!不安だって言ってたの!」


「分かっている。」


「私が居ると安心できるって。」


「お前は関係ない。」


「あるよ!」


紗世は即座に言い返した。


「私が居れば心強いって言ってくれた!」


惟成は黙った。


そして静かに言った。


「北の方様の安全や命を守りたいというのは分かる。」


紗世の表情が少し和らぐ。


だが次の言葉で再び固まった。


「だが、お前の命はどうする。」


「……。」


「出産間近の北の方様を案じるのと同じくらい、俺はお前の身を案じている。」


紗世は言葉を失った。


だが。


「……それでも行く。」


惟成は目を閉じた。


「俺も昇進した。以前のように四六時中お前の護衛についていられる立場ではない。」


「別に守ってなんて頼んでない。」


「行かせない。」


「嫌い。」


「そうか。」


「嫌いだってば。」


「分かった。」


「本当に嫌いって言ってるの!」


「嫌われても構わん。」


惟成は静かに言った。


紗世は唇を噛んだ。


「嫌いって言ってるでしょ!しつこい!!」


ぱちん。


紗世の平手が惟成の頬を打った。


惟成は避けなかった。


赤くなった頬のまま、小さく呟く。


「……すまん。」


そして


紗世の手首を掴んだ。


「ちょっ……何するの!?」


次の瞬間


惟成は紗世を軽々と肩へ担ぎ上げた。


「惟成!!」


暴れる紗世を無視し、そのまま廊下を進む。


「ちょっと!ここ惟成の家じゃないんだからね!私の家なんだから!」


それでも惟成は止まらない。


向かった先は庭の奥。


今は使われていない離れだった。


妻戸を開ける。


そして


どさり。


紗世を中へ下ろした。


直後


バタン。


妻戸が閉まる。


ガチャン!


外から閂が掛けられた。


「ちょっ……!?」


紗世は勢いよく立ち上がった。


「何してるの!?開けて!!」


外では真砂が追いついていた。


「こ、惟成様!さすがに、これは……!」


「無礼なのは承知している。」


惟成は離れの前に立ったまま言った。


「だが、こうでもしなければ紗世は危険へ飛び込む。」


「ですが……!」


「北の方様が宇治へ発たれた後、解放してやってくれ。」


離れの中から激しい音が響く。


どん!どん!


「惟成!!」


紗世が扉を叩く。


「本当に嫌い!!大嫌い!!顔も見たくない!!」


惟成は目を伏せた。


「見たくないなら、ちょうど良いだろう。」


「なっ……!」


さらに大きな音が響く。


「嫌い!惟成なんて無愛想だし!冷たいし!人のこと何にも分かってない!!大嫌い!!」


惟成の手が僅かに握られる。


それでも声は変わらない。


「閂は外すなよ。」


真砂は何か言い返そうとして――言葉を失った。


惟成の横顔を見てしまったからだ。


怒っているわけではない。


冷たいわけでもない。


ただ──


今にも泣き出しそうなほど苦しそうだった。


真砂は初めて悟った。


惟成もまた、好きでこんなことをしているわけではないのだと。


離れの中では、なおも紗世の怒鳴り声が響いていた。


だが惟成は振り返らなかった。

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