第216話 守りし者
紗世が手際よく台盤所で調理をしていると、後ろから遠慮がちな声が掛かった。
「和泉様……。」
振り返ると、そこには台盤所で働く下女が立っていた。
「和泉様は北の方様に招かれたお客様なのですから、そのようなことは私どもにお任せくださいませ。」
おずおずと申し出る。
「うーん、私もそうしたいんだけど。」
紗世は困ったように笑った。
「揚げ物だからね。たぶん、見たことのない調理法だと思うの。」
「で、ですが……!」
(あなたがここに居たら、食事に混ぜられないじゃない!)
下女は後ろ手に小さな包みを隠していた。
──昨夜
「明日、北の方と親しい他家の女房が二条邸を訪れる。」
男は低い声で言った。
「その女房も共に口にする食事や菓子に、これを混ぜろ。」
差し出された小包を見て、下女は顔を曇らせた。
「これは……。」
「少し具合が悪くなる程度のものだ。」
「毒……でございますか?」
「死にはせん。」
男は冷たく笑った。
「だが、腹の子がどうなるかは別だ。」
下女の顔から血の気が引いた。
「北の方様はご懐妊中です……。」
「それが狙いよ。」
男はさらに声を落とした。
「それに他家の女房も共に倒れれば、誰を狙ったのか分からなくなる。」
下女は震えた。
「お主の子は三つだったな。」
「……!」
「三つの子は危ういぞ。病にもかかりやすい。事故にも遭いやすい。」
男は無表情のまま続けた。
「川に落ちるかもしれん。牛車に轢かれるかもしれん。高い所から落ちるかもしれんな。」
下女は唇を噛んだ。
「……混ぜるだけで良いのですね。」
男の口元がゆっくり歪んだ。
「ああ。それだけだ。」
──そして今
(これを混ぜるだけ……。)
下女は何度も包みの感触を確かめた。
(死ぬわけじゃない。死ぬわけじゃない……。)
「じゃあ、洗い物をお願いしても良い?」
紗世が笑顔で言った。
「は、はい!」
下女は慌てて返事をした。
だが心の中は焦りでいっぱいだった。
(いつ入れるの……!?)
ジュワアアアア──
油の弾ける音が響く。
「ひっ!」
下女は思わず肩を震わせた。
「大丈夫?」
「な、何ですか!?その音は!」
「揚げるっていう調理法だよ。」
紗世は楽しそうに答える。
「油が跳ねるから危ないの。」
(そんなことどうでもいいのよ……!)
下女は心の中で叫んだ。
やがて揚げたての唐揚げが台の上に並ぶ。
「よし。半分は甘酢を絡めて……。」
紗世は卵や葱を取りに、その場を離れた。
下女の目が光る。
(今だ……!)
包みを開き、唐揚げへ手を伸ばした。
その瞬間だった。
白い影が台盤所へ飛び込んだ。
「きゃっ!」
鋭い爪が下女の手を打つ。
包みが弾かれた。
白い粉が床へ散る。
「痛っ!」
下女が悲鳴を上げた。
床へ降り立った白猫が、じっと下女を見上げている。
虎徹だった。
(間に合ったか。)
虎徹は散った粉を見た。
(人間というものは、本当に面倒だ。)
「どうしました!?」
紗世が慌てて駆け寄ってくる。
「あっ……虎徹!?」
虎徹は何事もなかったかのように尻尾を揺らした。
「もしかして……引っ掻いたの?」
紗世は下女の手の傷を見つけた。
「ご、ごめんなさい!」
慌てて懐紙を取り出す。
「とりあえず、これで押さえてください。」
手当てを受けながら、下女の視線は床に散った粉へ向いていた。
(毒が……。)
顔色がみるみる青くなる。
「大丈夫ですから、少し休んでください。」
「は、はい……!」
下女は逃げるように台盤所を出て行った。
紗世は首を傾げる。
「なんだか変な人だったなぁ。」
そして虎徹へ向き直る。
「それより虎徹。」
しゃがみ込んで目線を合わせた。
「人を引っ掻いたら駄目でしょう?」
「にゃあ。」
「まず、この台盤所と北の方様のお部屋には入らないこと。」
「にゃあ。」
「分かったら二回鳴いてみて。」
冗談半分で言う。
すると
「にゃあ、にゃあ。」
紗世は目を丸くした。
「えっ。」
虎徹は平然としている。
「今、二回鳴いたよね?」
「にゃあ。」
「やっぱり虎徹は賢いなぁ。」
紗世は嬉しそうに頭を撫でた。
「ほら、ご褒美。」
小さな唐揚げを差し出す。
虎徹はそれを咥えた。
そして軽やかに走り出し、塀を飛び越えて姿を消した。
「相変わらず身軽だなぁ……。」
紗世は思わず呟く。
「なんだか惟成みたい。」
ふと、今朝のことを思い出した。
『嫌い。』
そう言った時の惟成の顔。
少しだけ寂しそうだった。
胸がちくりと痛む。
「……なんであんなに必死に止めたんだろう。」
だが今は考えている暇はない。
「あっ、いけない!」
紗世は慌てて振り返った。
「料理の途中だった!」
再び台盤所へ向かう。
その背を見送りながら、塀の向こうの虎徹は小さく息を吐いた。
(まったく。)
金色の瞳が細くなる。
(あの娘は、いつも危うい所へ自分から飛び込んでいく。)
───
出来上がった料理を膳に載せ、紗世は部屋へ運んだ。
膳が並べられると、若紫が目を輝かせる。
「まあ!良い匂いです!」
「葵、若紫。」
源氏の君が笑う。
「唐揚げは冷めても美味いが、出来立ては格別だ。火傷せぬよう気を付けて食べなさい。」
「ええ。」
葵の上が頷いた。
「では、いただきましょう。」
さくっ。
さくっ。
御簾の内から小気味よい音が響く。
「まあ……!」
「美味しいです!」
葵の上と若紫が同時に声を上げた。
「外はかりっとしているのに、中はとても柔らかいのね。」
「はい!味もよく染みています!」
紗世は微笑んだ。
「こちらは北の方様がお気に入りだと伺った甘酢漬けの卵とネギだれの方です。」
控えていた女房に目配せし、新しい膳を運ばせる。
「まあ!」
葵の上の声が弾んだ。
「こちらも本当に美味しいわ。」
「うむ。」
源氏の君も満足そうに頷く。
「やはりこれは酒が欲しくなるな。」
「昼間から飲まないでくださいませ。」
葵の上が呆れたように言う。
部屋に笑いが広がった。
紗世はその様子を見て自然と頬を緩めた。
⸻
しばらくして。
葵の上がふとため息をつく。
「御息所様が羨ましいわ。」
「え?」
「和泉のような女房がいるのですもの。」
紗世は苦笑した。
「でも私、姫君としての教養は大したことありませんよ。」
「何を言うの。」
葵の上は笑った。
「そこが良いのよ。」
「そうだな。」
源氏の君も頷く。
「和泉殿は和泉殿らしいのが一番だ。」
「ありがとうございます。」
紗世は照れくさそうに笑った。
「ところで北の方様。」
「なにかしら?」
「ご出産はいつ頃になりそうなのですか?」
葵の上は大きくなった腹を撫でた。
「あと十日から二十日ほどと言われているわ。」
「もうそんなに近いのですね。」
「ええ。」
葵の上は頷く。
「だから近いうちに宇治の別邸へ移ろうと思っているの。」
「やはり行くのか。」
源氏の君が眉を下げた。
「不安なら二条邸で――」
「産みません。」
ぴしゃり。
葵の上が遮る。
源氏の君は肩を落とした。
「そうか……。」
「宇治に別邸があるのですね。」
紗世が尋ねる。
「ええ。」
葵の上が微笑む。
「父の別邸があるの。」
そして少し間を置いて言った。
「和泉。」
「はい。」
「無理なお願いとは承知しているのだけれど……。」
「なんでしょう?」
「宇治へ一緒に来ていただけないかしら。」
紗世は目を瞬かせた。
「私が?」
「ええ。」
葵の上は少し俯く。
「宇治には源氏の君も若紫も居ないでしょう。」
「……。」
「だから少し不安なの。」
源氏の君も静かに言った。
「確かに葵は初めての出産だ。」
葵の上は続ける。
「和泉は年下とは思えないほど頼りになるの。」
「そんな……。」
「あなたが居てくれるだけで安心できるのよ。」
紗世は少し考えた。
御息所の言葉を思い出す。
――北の方様のお力になって差し上げなさい。
「……分かりました。」
葵の上が顔を上げる。
「本当に?」
「はい。」
紗世は笑った。
「私でお役に立てるなら。」
「ありがとう!」
葵の上の声が弾む。
源氏の君も安堵したように息を吐いた。
「それは心強い。」
そして真っ直ぐ紗世を見る。
「葵を頼む。」
「お任せください。」
「和泉、ありがとう。宇治へ移るのは五日後を予定しているの。それまでに準備を整えましょう。」
そうして紗世の宇治行きが決まった。




