第215話 束の間の安らぎ
───二条邸
「和泉、よく来てくれたわ!」
御簾の向こうから聞こえた葵の上の声は、弾むように明るかった。
「北の方様、お久しゅうございます。お腹のお子も順調そうで何よりでございます。若紫様も、すっかりお顔立ちが大人びましたね。」
紗世も再会の嬉しさを隠せず、自然と笑みを浮かべた。
葵の上はそっと腹を撫でながら言う。
「私、和泉に会いたかったのはね。あなたがいてくれれば、この子はきっと無事に生まれてくれる――そんな気がするからなの。この子だけは、どうしても守りたいのよ。」
「待望の源氏の君のお子ですものね!」
「ええ……。」
葵の上は少し目を伏せた。
「実はね。和泉が里へ帰っていた二年の間、なかなか子を授からなかったの。」
紗世は胸の内で頷いた。
(原作では夫婦仲が冷え込んでいたから当然なんだけど……今は違うもんね。)
「源氏の君はいつも私のもとへ帰って来てくださるのに、それでも授からなくて……。周りからは石女ではないかと囁かれることもあったわ。」
どこか寂しげな声音だった。
(仲の良い夫婦ほど焦るよね……。)
「大丈夫です!きっと元気なお子がお生まれになります!」
「そうかしら……。男児だと、良いのだけれど……。」
葵の上は少し笑った。
「もちろん姫君でも嬉しいのよ?けれど、周りは若君を望んでいるでしょう?」
「若君です!」
紗世は力強く断言した。
(夕霧です!間違いなく夕霧です!)
葵の上は目を丸くした後、ふっと微笑む。
「和泉がそう言うと、本当に若君のような気がしてくるから不思議ね。」
「北の方様。源氏の君はお優しいですか?」
その途端、葵の上の頬がみるみる赤くなった。
「えっ……ええ。とても優しくて、いつも気遣ってくださって……。子を授からなかった二年間も、その……ちゃんと夜も……。」
「子を授かるために、努力と協力を惜しまなかったのですね?」
「そ、そそそそそうなの!」
葵の上は慌てて頷く。
「周囲の者が私を石女と陰で囁いた時も、とても怒ってくださって。」
「何と仰ったのですか?」
「『子を授からぬのは葵のせいではない。今はまだその時ではないというだけだ。必ず授かる日が来る』――と。」
「まあ……。」
「それに、側室を迎えるよう勧められたことも何度もあったらしいのだけれど……。」
「けれど?」
葵の上は扇で顔を隠した。
「『私は葵との子しか欲しくない』と……。」
「きゃあああああ!」
紗世は思わず両手で頬を押さえた。
「満点です!それは満点の答えです!」
(さすが主人公!そういう台詞だけは絶対に外さない!)
葵の上はますます顔を赤くした。
「そういう日は……その……夜も、とても優しくて……。この子がお腹に来てくれた夜も、多分そんな日だったのだと思うの……。」
紗世も思わず赤くなる。
(平安女子の恋バナ、結構踏み込んでるよね……。)
その時だった。
「子が腹に来てくれた時が、どんな日だったのだ?」
聞き慣れた男の声がした。
間。
間。
間。
「きゃああああああっ!!」
「ひゃああああああっ!!」
紗世と葵の上の悲鳴が見事に重なった。
「な、何だ!?どうしたのだ!?」
突然の絶叫に、源氏の君の方が驚いている。
「い、いきなり現れないでください!」
紗世は胸を押さえた。
「心臓に悪いです!」
「む……すまぬ。」
源氏の君は少し気まずそうに座る。
葵の上は慌てて話題を変えた。
「げ、源氏の君。和泉は、お腹の子は若君だろうと申しておりますの。」
「おお!」
源氏の君の顔がぱっと明るくなる。
「和泉殿がそう言うなら本当に若君のような気がするから不思議だな。」
「夫婦揃って全く同じことを仰るのですね。」
紗世は思わず吹き出した。
葵の上と源氏の君は御簾越しに顔を見合わせ、小さく笑う。
(本当に仲の良い夫婦になったんだな……。)
胸が温かくなる。
だが同時に、別の思いも強くなった。
(だからこそ、葵の上が亡くなる未来だけは絶対に避けたい。)
原作では避けられなかった悲劇。
けれど、この世界では既に幾つもの出来事が変わっている。
夕顔の運命も。
末摘花の境遇も。
車争いの結末も。
(なら、葵の上だって――。)
そう考え込んでいると、
「難しい顔をしてどうした?」
源氏の君が不思議そうに尋ねた。
「あ、いえ!」
紗世は慌てて笑う。
「北の方様は臨月ですし、どんなお食事が良いかなって考えていたんです。」
その瞬間、源氏の君の表情がぱっと輝いた。
「和泉殿が料理を作ってくれるのか!?」
「ええ。私にできることは、それくらいですから。」
そう言うと、御簾の内で若紫が嬉しそうに声を上げた。
「和泉殿のお料理ですか!?私、からあげとやらが大好きです!」
「若紫様まで。」
「お姉様は卵と葱のたれがかかったものがお気に入りなのです!」
「あら、若紫ったら。」
葵の上が少し照れたように笑う。
「もちろんです。また作りますよ。」
「本当に!?」
「ええ。」
紗世は立ち上がった。
「では、早速台盤所をお借りしますね。」
「頼む!」
「楽しみだわ。」
期待に満ちた声に見送られながら、紗世は袖を少し捲り上げ、台盤所へ向かった。
――その背後で、誰にも気付かれぬまま。
紗世の後ろ姿を、不審な者が一人、じっと見つめていた。




