第214話 嫌われても
───その夜・惟成の部屋
──ストッ。
惟成が文机に向かっていると、背後で何かが降り立つ音がした。
「……虎徹か。」
振り返ると、案の定、虎徹が尻尾をゆらりと揺らしていた。
「紗世を止められなかったか。」
惟成は小さく息を吐く。
「ああ。」
虎徹は前足を揃えて座った。
「ああなると紗世は聞かん。──その後、何か情報はあったか?」
「右大臣とやらも、左大臣家の姫をどう亡き者にするか考えておるようだがな。」
虎徹は冷ややかに言った。
「なかなか良い案が浮かばぬらしい。」
「まあ、左大臣家の姫の出産となれば周囲も警戒している。容易には手を出せぬだろう。」
「だが──」
虎徹の声が低くなる。
「右大臣も、なりふり構わぬようになりそうだ。」
惟成の眉が上がった。
「獣たちの話ではな。右大臣家で『毒』や『賊』という言葉が飛び交っておるらしい。」
「……毒か。」
惟成の目が鋭くなる。
「左大臣邸で毒を盛るのは難しい。賊も同じだ。だが邸の外なら話は別だろう。」
「そういうことだ。」
虎徹は頷いた。
「明日の朝、もう一度紗世を止める。」
惟成は静かに言った。
「無理であろうな。」
虎徹が即答する。
惟成は否定しなかった。
「ああ。」
しばし沈黙が落ちる。
やがて虎徹が面白そうに片目を細めた。
「惟成。」
「なんだ。」
「紗世に嫌われたか?」
惟成は一瞬だけ視線を逸らした。
「……優しくない惟成は嫌いだ、と。」
口にすると、胸の奥がわずかに痛んだ。
虎徹は静かに尻尾を揺らす。
「いずれ分かる時が来る。」
「そうだと良いがな。」
惟成は窓の外へ目を向けた。
夜風が静かに吹いていた。
───翌朝
「……呆れた。本当に止めに来たの!?」
牛車へ乗り込もうとしていた紗世は目を丸くした。
惟成は紗世の腕を掴んだまま離さない。
「放して。」
「力づくでも止めると言ったはずだ。」
「だったら理由を教えて。」
「今は言えん。」
「それじゃ納得できない。」
「納得できなくていい。」
惟成は真っ直ぐ紗世を見る。
「だが、今は行くな。」
その横で、真砂と雪丸は困り果てていた。
惟成が理由もなく紗世を困らせる人間ではない。
だが、紗世がここまで反発するのも珍しい。
どう仲裁すればよいのか分からなかった。
「……嫌い。」
紗世がぽつりと言った。
惟成の瞳がわずかに揺れる。
だが、手は離さない。
「もう嫌いだから。」
「……そうか。」
短い返事。
しかし次の言葉は変わらなかった。
「それでも行かせられん。」
「っ……!」
「今だけは駄目だ。」
紗世は唇を噛んだ。
ただ苦しそうに目を伏せる。
「私、行くから。」
「駄目だ。」
「行くもん!」
「止める。」
「嫌い!」
紗世の目から涙が零れ落ちた。
その瞬間だった。
惟成の手の力が、わずかに緩む。
紗世はその隙を逃さなかった。
ぱっと腕を引き抜き、そのまま牛車へ飛び乗る。
「紗世!」
「雪丸!出して!」
「は、はいっ!」
御者が牛を進ませる。
牛車はゆっくりと動き出した。
御簾の隙間から見えた紗世の横顔は、もうこちらを見ていない。
惟成は追わなかった。
ただ、その場に立ち尽くす。
やがて牛車は角を曲がり、姿を消した。
朝の風だけが残る。
惟成は静かに拳を握った。
(……嫌われてもいい。)
胸の奥が痛む。
(だから無事でいろ。)
誰にも聞こえない祈りだけが、その場に残った。
───検非違使庁
若い検非違使が、机に向かって書類を確認していた兼成のもとへ駆け寄った。
「藤原検非違使尉様。左兵衛府の源兵衛尉様がお会いしたいと。」
「源兵衛尉?」
兼成は顔を上げた。
(惟成が邸ではなく、ここへ来るとは珍しいな。)
席を立ち、応接用の部屋へ向かうと、そこには惟成が立っていた。
「どうしたのだ?仕事の話か?」
「ええ。仕事の話です。」
惟成は淡々と答えた。
(……姫とはまだ仲直りしておらぬらしいな。)
兼成は内心でそう思いながら、惟成を部屋へ招き入れた。
「して、用件は何だ?」
「最近、二条邸や左大臣邸の周辺をうろつく不審な者達がいるとの情報が入りまして。」
兼成の表情が引き締まる。
「その者達の会話を耳にした者によれば、“毒”や“賊”という言葉が頻繁に出ていたそうです。」
「何だと?」
「二条邸には源氏の君がおられます。加えて、北の方様は臨月とのこと。狙いはそこではないかと。」
兼成は腕を組み、低く唸った。
「……右の手の者かもしれぬな。」
「私もそう考えております。」
「男児が生まれれば、左大臣家と源氏の君との結び付きはさらに強くなる。右が警戒しても不思議ではない。」
惟成は静かに頷いた。
「検非違使尉様。」
「なんだ。」
「本日より、姫君は北の方様のもとへ行っておられるのでしょう。」
兼成の目が見開かれた。
「……………………あ。」
そして次の瞬間、
「姫も危険ではないか!!」
と叫びながら立ち上がった。
「左様です。」
「こんな所で悠長にしておる場合ではない!!」
兼成は勢いよく部屋を飛び出した。
「おい!誰かおらぬか!!」
廊下にいた検非違使達が慌てて振り返る。
「大至急、二条邸と左大臣邸周辺の巡回を強化せよ!怪しい者を見かけたら即座に捕らえろ!」
「はっ!」
検非違使達は一斉に駆け出していった。
兼成は周囲を見回し、人がいなくなったのを確認すると、再び惟成へ向き直った。
「……ところで。」
「なんでしょう。」
「姫とは仲直りしたのか?」
小声で尋ねる。
惟成は無表情のままだった。
「仲直りも何も、喧嘩などしておりません。」
「嘘をつけ。」
兼成は即座に言った。
「昨日のあれはどう見ても喧嘩だ。」
「しておりません。」
「むぅ……。」
兼成は納得のいかない顔をした。
「喧嘩ではないと言うなら良いがな。」
そう言ってから、少し真面目な顔になる。
「惟成。」
「はい。」
「言わずとも分かる、分かってもらえる――そんなものは幻想だぞ。」
惟成は黙って聞いていた。
「男同士なら通じることもある。だが女人には通じん。」
兼成は腕を組む。
「男は察してほしいと思うものだ。だが女人は違う。言葉にしてくれねば不安になる。」
「……。」
「姫を想っているなら、ちゃんと言え。」
しばし沈黙が落ちた。
やがて惟成がぽつりと言う。
「分かってはいるのですが……。」
兼成は小さく息を吐いた。
「早めに機嫌を取れ。」
「はい。」
「姫の機嫌が悪いと、邸全体がぴりぴりしてちっとも落ち着かん。」
「努力します。」
「頼むぞ。」
兼成はそう言うと部屋を後にした。
一人残された惟成は、静かに視線を落とした。
(……嫌われても構わぬと思った。)
紗世を危険から遠ざけるためなら、それでいいと。
そう思っていた。
だが――
今朝、涙を浮かべた紗世の顔が脳裏を過る。
(……あの涙は、見たくなかったな。)
惟成は小さく息を吐き、庭へ目を向けた。




