表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
213/254

第213話 隔つ心

───二条邸


「あっ…葵…出産は実家でするのか? ここで出産しても良いのだぞ?」


源氏の君は、葵の上の大きくなった腹を見ながら言った。


「いいえ。実家へ帰りますわ。」


葵の上はきっぱりと答える。


「出産で源氏の君が穢れてはなりませぬもの。」


「穢れなど……何を言う!」


源氏の君は身を乗り出した。


「私の子なのだぞ? 穢れのわけがなかろう! だからな? 二条邸で出産すれば良い。」


「帰ります。」


「葵〜〜……。」


情けない声を上げる源氏の君に、葵の上は思わずくすりと笑った。


結婚当初のぎこちない関係が嘘のようだった。


今の源氏の君は、葵の上をとても大切にしている。


「そんなことより、源氏の君。お願いがあるのですが。」


「お願い!?」


源氏の君は勢いよく顔を上げた。


「何だ!? 何でも言え!」


「私、和泉に会いたいのです。」


「和泉殿に?」


「ええ。」


葵の上は腹を優しく撫でる。


「和泉は、悪阻で苦しんでいた時、私のために色々な料理を考えてくれましたでしょう?」


「ああ。」


「不安なことがあっても、和泉がいてくれると思うと、不思議と安心できるのです。」


源氏の君は苦笑した。


「確かに。和泉殿は不思議な姫だ。私も色々と相談してしまった。」


「お腹が大きくなるにつれて、不安も大きくなってきまして……。」


葵の上は少し目を伏せる。


「和泉が話し相手になってくれれば、気も紛れると思うのです。」


「なるほど。」


源氏の君は頷いた。


「では、私から御息所様にお願いしてみよう。和泉殿を少しお借りできないかとな。」


「ありがとうございます。」


葵の上は安堵したように微笑んだ。


「不安が解消できれば、二条邸で出産してくれるか?」


「それとこれとは別です。」


「やはり駄目か……。」


源氏の君はがっくりと肩を落とした。




───翌日・六条邸


「私が北の方様のお側へ?」


紗世は目を丸くした。


「うむ。」


源氏の君が頷く。


「葵がどうしても和泉殿に会いたいと申していてな。出産前で不安が大きいようなのだ。」


そして御簾の向こうへ向かって頭を下げた。


「御息所様。和泉殿は御息所様の女房と存じておりますが、しばらくお借りできないでしょうか。」


御簾の内から静かな声が返る。


「出産は母子ともに命懸けです。」


紗世は姿勢を正した。


「北の方様も、さぞご不安なのでしょう。」


「はい。」


源氏の君が頷く。


「それに、悪阻の折も和泉が考えた料理に助けられたと聞いております。」


御息所は穏やかに続けた。


「それほど頼りにされているのであれば、行って差し上げなさい。」


「御息所様……。」


「北の方様のお力になっておいで。」


「はい。」


紗世は深く頭を下げた。


源氏の君も安堵したように息を吐く。


「恩に着る。」


「では、いつから伺えばよろしいでしょうか?」


「葵は一日でも早く会いたがっている。明日からでも構わぬ。」


「分かりました。」


紗世はにっこりと微笑んだ。


「明日から伺います。」





───夕刻・四条邸


六条邸から戻った紗世は、自室で翌日の支度をしていた。


持って行く物を確認していると、真砂がやって来る。


「紗世様。惟成様がお見えになります。」


「えっ?」


紗世は顔を上げた。


「ほんと、いつも急なんだから。」


そう言いながらも、その表情はどこか嬉しそうだ。


やがて廊下を渡る足音が聞こえてきた。


「入るぞ。」


「どうぞー。」


惟成は御簾の外へ腰を下ろした。


だが、その表情はいつもより硬い。


紗世は首を傾げる。


「どうしたの? 今日はなんだか難しい顔してる。」


「明日から源氏の君の北の方様のもとへ行くと聞いた。」


「ああ、そのこと?」


紗世はぱっと表情を明るくした。


「うん。北の方様とは久しぶりだから楽しみなんだ。」


しかし惟成は笑わなかった。


「……やめておけ。」


紗世は目を瞬いた。


「え?」


「行くな。」


「なんで?」


「とにかく行くな。」


あまりにも真剣な声だった。


紗世の笑顔が消える。


「理由は?」


惟成は答えない。


脳裏には昨夜の虎徹の言葉が蘇っていた。


──左大臣家の姫の命が狙われている。


──紗世も巻き込まれるかもしれん。


葵の上の命が危ぶまれている。


そして紗世も巻き込まれる可能性が高い。


だが、虎徹という妖が教えてくれたなど口にできるはずもない。


それに――。


そんなことを言えば、紗世は余計に北の方のもとへ行くと言い出すだろう。


危険だから助けたい。


それが紗世という姫なのだから。


「……言えない。」


紗世の眉が寄る。


「え?」


「今は理由を言えない。」


「何それ。」


「だが行くな。」


「理由も教えてくれないのに?」


「納得できなくても駄目だ。」


「そんなの無茶苦茶だよ。」


紗世は不満そうに唇を尖らせた。


「北の方様は出産間近なんだよ。」


「知っている。」


「出産は命懸けなの。」


「分かっている。」


「不安でいっぱいなんだよ?」


「それも分かっている。」


「だったら!」


紗世は思わず声を荒げた。


「私が行って安心するなら、それでいいじゃない!」


惟成は静かに目を伏せる。


「……俺も、お前が行きたい理由は分かる。」


紗世は少しだけ期待した。


だが、


「それでも駄目だ。」


「何でよ!」


「行かせられない。」


「理由も言わないで!?」


「言えない。」


「またそれ!」


紗世は立ち上がった。


「最近の私がどれだけ北の方様とお文をやり取りしてたか知ってるでしょ!?」


「ああ。」


「北の方様、ずっと不安だったんだよ!」


「分かっている。」


「だったら――」


「行くな。」


その一言に、紗世は言葉を失った。


「私、行くよ。」


「駄目だ。」


「行く。」


「行かせない。」


「行くったら行く!」


「力づくでも止める。」


紗世は目を見開いた。


「どうしてそんなこと言うの!?」


惟成は真っ直ぐ紗世を見た。


「お前のためだ。」


「そう言えば許されると思わないで!」


「思っていない。」


「今までの惟成なら、ちゃんと説明してくれた!」


惟成は黙った。


言えない。


だが、言わないわけではない。


その違いは今の紗世には分からなかった。


「私、惟成って無愛想だけど、優しい人だと思ってた。」


惟成の眉が僅かに動く。


「でも今の惟成、優しくない。」


沈黙が落ちた。


やがて紗世は顔を背ける。


「……嫌い。」


惟成は何も言わない。


「優しくない惟成なんて嫌い。」


長い沈黙の後。


「……そうか。」


それだけだった。


静かな声だった。


その声が少しだけ寂しそうに聞こえて、紗世の胸がちくりと痛む。


それでも引き下がれなかった。


「帰って。」


「……分かった。」


惟成は立ち上がった。


そして振り返ることなく部屋を出て行く。


「父上! 父上ー!」


紗世は廊下へ向かって叫んだ。


しばらくして兼成が駆け込んで来る。


「どうした姫!」


「惟成帰るって!」


「おお!」


兼成は勢いよく頷いた。


だが次の瞬間。


「……え?」


首を傾げる。


「帰る?」


「うん!」


「見送って良いのか?」


「いい!」


兼成は困惑した。


いつもなら逆である。


惟成を追い出そうとする兼成。


それを止める紗世。


それが常だった。


「ほ、本当に?」


「いいから!」


「お、おう……。」


兼成は訳も分からぬまま廊下へ出た。


そこには無表情の惟成が立っていた。


「惟成、お主……姫と喧嘩したのか?」


「しておりません。」


即答だった。


「いや、絶対しただろ。」


「しておりません。」


「怖い怖い怖い。」


兼成は思わず後ずさる。


惟成は淡々と歩き出した。


「帰ります。」


「そ、そうか……。」


しばらく歩いた後、兼成は小声で尋ねた。


「本当に何があった?」


惟成は前を向いたまま答える。


「別に。」


短い返事だった。


その横顔は普段よりもずっと険しかった。


兼成は去っていく背中を見送りながら、大きくため息をつく。


「……絶対、喧嘩だろう。」


四条邸には重たい空気だけが残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ