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第212話 凶兆

───その夜


「おい、惟成。」


夜。


惟成が自室で文を書いていると、不意に庭の方から声がした。


(誰だ? 父上ではないな……。)


筆を置き、廊下へ出て辺りを見回す。


しかし、人影は見当たらない。


(空耳ではあるまい。)


すると再び声が降ってきた。


「どこを見ている。ここだ。」


惟成が顔を上げる。


屋根の上に白猫が座っていた。


虎徹だった。


「虎徹か。何をしている。」


惟成は小声で尋ねた。


「少し聞きたいことがあってな。」


そう言うと虎徹はひらりと飛び降り、廊下へ着地した。


「入るぞ。」


当然のように部屋へ上がり込む。


惟成は周囲に人の気配がないことを確かめると、御簾を少し下ろした。


「案ずるな。人には見られぬようにしておる。」


虎徹は悠然と座り、尻尾を揺らした。


「お前がわざわざ来るとは珍しいな。」


惟成も腰を下ろす。


「ふん。紗世の邸から二軒隣など、猫からすれば散歩にもならぬ。」


「そうか。」


惟成は苦笑した。


「それで?」


虎徹の瞳が細くなる。


「紗世は源氏の君の北の方とやらと懇意なのか?」


「源氏の君の北の方様?」


惟成は少し考えた。


「飾り髪を結いに参ったり、懐妊中に召し上がれそうな料理を届けたりしている。文のやり取りもあるらしい。」


「ならば懇意ということだな。」


「それがどうした。」


虎徹は静かに言った。


「その北の方を亡き者にしようとしている者がおる。」


惟成の表情が強張る。


「何だと?」


「それだけなら我には関係ない。」


虎徹は前足を舐めた。


「誰が死のうが、人間どもの勝手だ。」


そして顔を上げる。


「だが、その北の方とやらは最近とりわけ紗世に会いたがっている。」


「北の方様が?」


「理由までは知らぬ。出産を控え、不安なのであろう。」


惟成は黙って続きを促した。


「北の方の邸の周りにいる獣どもが騒いでいてな。」


虎徹は続ける。


「出産が近付くにつれ、物騒な話が増えているそうだ。」


「どこから出た話だ。」


「一条の大きな邸だ。」


虎徹は鼻を鳴らした。


「人間どもは右大臣と呼んでおったな。」


(やはり右大臣様か……。)


惟成は眉を寄せる。


「北の方は近いうちに紗世を二条邸へ呼ぶかもしれぬ。」


「……。」


「我が案じているのは、その時だ。」


虎徹の目が鋭く光る。


「北の方だけでなく、紗世まで巻き込まれるやもしれん。」


「なぜそう思う。」


「右大臣は言っていた。」


虎徹の声が低くなる。


「北の方が死ぬ時は、誰にも疑われぬように、と。」


惟成は黙って聞く。


「事故に巻き込まれた者の一人と思われるなら、他に何人死のうと構わぬ、ともな。」


惟成の表情が険しくなった。


「確かに、大勢の中の一人であれば、不幸な事故と見られるだろうな。」


「そういうことだ。」


虎徹はため息をついた。


「紗世は次から次へと厄介事に巻き込まれる。」


「否定できぬな。」


「先日も鷹丸とやらの生霊に憑かれておった。」


虎徹は惟成を見る。


「……そういえば、あの男。夢の中で喰らえると思ったのだがな。」


しばし沈黙が落ちる。


「……喰らえば良かったのに。」


ぽつりと惟成が言った。


虎徹が目を丸くした。


「珍しいな。」


「何がだ。」


「お前がそんなことを言うとは思わなかった。」


惟成は顔を背ける。


「気に食わなかっただけだ。」


虎徹は喉を鳴らすように笑った。


「そういうことにしておいてやろう。」


そして立ち上がる。


「その調子で紗世を護れ。」


「ああ。」


「しばらくは二条邸へも行かせぬつもりか?」


「必要ならばな。」


「紗世に嫌われるぞ。」


「承知の上だ。」


虎徹は満足そうに頷いた。


そして再び屋根へ飛び乗る。


「また獣どもから話を聞いたら知らせよう。」


「頼む。」


虎徹は夜空を見上げた。


「……北の方の周りは騒がしい。」


「?」


「嫌な匂いがする。」


そう言い残し、白猫の姿は闇へ溶けるように消えた。


惟成はしばらく屋根の向こうを見つめていた。


(右大臣様か……。)


静かな夜風が吹き抜ける。


胸の奥に、嫌な予感だけが残った。




───右大臣邸


右大臣の前に、頭中将は静かに座していた。


「して、婿殿。」


右大臣が扇をゆるりと動かす。


「源氏の君や検非違使尉、兵衛尉らのこと。何か綻びは見つかったか?」


頭中将はわずかに視線を伏せた。


「皆、職務においては評判の良い者ばかりにございます。今のところ、これといった落ち度は耳にしておりませぬ。」


「ふむ。」


右大臣は鼻で笑った。


「婿殿は勘違いしておるようだな。」


「……と申しますと?」


「弱みなど、初めから無くても良いのだ。」


頭中将が顔を上げる。


右大臣はゆっくりと言葉を続けた。


「そなたが作ればよい。」


「!」


「欺き、陥れれば良い。」


部屋の空気が冷えた気がした。


頭中将は拳を握る。


「人を陥れれば、いずれ己に返りましょう。」


静かな声だった。


「そもそも右大臣家は今なお栄えております。何ゆえ、そこまで焦られるのです?」


右大臣の目が細くなる。


「……やはり若いな。」


低く落ちる声。


「今の栄華が、何の犠牲もなく得られたものと思うか。」


頭中将は黙った。


「そなたは右大臣家の婿となり、中将の位を得ておる。それを当然と思うてはおらぬか?」


「…………。」


「違う。」


右大臣の目が鋭く光る。


「今の地位も権勢も、守らねば失うのだ。」


頭中将は息を呑んだ。


右大臣はさらに身を乗り出した。


「左大臣家。」


「……。」


「そして、先の政争において敦高親王を担いだ家々。」


右大臣の声が低く響く。


「それらの力は削がねばならぬ。」


「義父上……。」


「よいか。」


右大臣は頭中将を真っ直ぐ見据えた。


「消さねば、いずれ消される。」


頭中将の背筋に冷たいものが走る。


「生き残るのは一方だけだ。」


沈黙。


「婿殿は、消える側になっても良いのか?」


頭中将は答えられなかった。


老獪な権力者が放つ重圧に、身体が動かない。


やがて右大臣は大きく息を吐いた。


「……お主は優し過ぎる。」


失望したような声だった。


「優しいのは悪くない。」


扇を閉じる。


「だが、優し過ぎる者は政では生き残れぬ。」


頭中将は唇を噛んだ。


右大臣は立ち上がる。


「もうよい。」


冷淡な声。


「お主には期待せぬ。」


そして振り返りもせず言った。


「もとより、四の姫の婿だ。」


頭中将の肩がぴくりと動く。


「お主は都合の良い人質に過ぎぬ。」


その言葉に、頭中将は拳を強く握り締めた。


右大臣は出口へ向かいながら続ける。


「婿殿。」


「……。」


「今後、左大臣家に何が起ころうとも、恨むでないぞ。」


頭中将は勢いよく顔を上げた。


「義父上!」


思わず声が大きくなる。


「実家に何をなさるおつもりです!?」


しかし右大臣は立ち止まらない。


ただ口元に薄い笑みを浮かべただけだった。


「お主は何もせなんだ。」


振り返る。


その目には冷たい光が宿っている。


「ならば、恨む資格もあるまい。」


そう言い残し、右大臣は去っていった。


静寂。


広い部屋に頭中将だけが残される。


「何を……。」


握った拳が震える。


「何をするおつもりなのだ……義父上。」


胸の奥に湧き上がるのは、不安だった。


そして――


左大臣家への、強い嫌な予感だった。

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