第211話 夢の名残り
──翌日
仕事を終えた惟成は、四条邸へ立ち寄った。
「まあ。惟成様。ようこそおいでくださいました。紗世様も先ほど六条邸から戻られたばかりですよ。」
真砂はそう言って惟成を紗世の部屋へ案内した。
部屋へ通されると、御簾の内で紗世が慌ただしく身支度を整えていた。
「何をしているんだ?」
惟成が怪訝そうに尋ねる。
「もうっ!惟成、いつも突然来るんだもん!身支度の時間くらいちょうだい!」
「先触れは出しているだろう。」
「知らせを出すと同時に家を出てるでしょ!?それじゃ先触れが先触れじゃないの!」
「気にするな。」
「私が気にするの!髪だって結い直せてないのに。」
「待っていてやるから結い直せばいい。」
じっと見られていることに気付き、紗世はますます落ち着かなくなる。
「きょ、今日はもういい……。」
「そうか。」
「で、今日は何の用なの?」
「昨夜は眠れたのか?」
紗世は一瞬きょとんとした。
そして、ふっと表情を和らげる。
(生霊の件を心配して来てくれたんだ……。)
「うん!爆睡だった!」
「貴族の姫が爆睡などと言うな。」
「本当なんだもん。」
惟成は呆れたように息を吐いた。
「……鷹丸様も、ちゃんと眠れたかな。」
「大丈夫だろう。」
惟成は静かに答える。
「最後は軽口を叩く余裕もあった。少なくとも、少しは前を向けたはずだ。」
「うん。」
紗世は嬉しそうに頷いた。
「最後の鷹丸様、少し元気そうだった。」
「俺は気に食わんと言われたがな。」
「惟成があんなこと言うからでしょ……。」
「どんなことだ?」
紗世の顔がみるみる赤くなる。
「も、もういいよ、その話は。」
「数え切れんほど契ったという話か。」
「やああああああ!!」
紗世は思わず両手で顔を覆った。
「何言ってるの!?」
「仕方あるまい。ああ言えば諦めも早くつくだろうと思った。」
「そうだけど!」
「実際、片は付いた。」
「そうだけどおおおお!!」
真っ赤になって再び両手で顔を覆う。
惟成はそんな紗世を見て小さく肩を震わせた。
「何をそんなに慌てている。」
「慌てるに決まってるでしょ!」
「夢の中の話だ。」
「夢の中でも恥ずかしいものは恥ずかしいの!」
しばらく沈黙が落ちた。
やがて惟成は御簾に手を掛けた。
「惟成?」
紗世が顔を上げる。
「入るぞ。」
「えっ?」
返事を待つことなく、惟成は御簾をくぐった。
「ちょっ……!」
「今さらだろう。」
確かに石山寺では抱き抱えられ、口付けまでされた。
だが、自室で改めて御簾の内へ入られるのは話が別だった。
紗世は顔を赤くする。
惟成は紗世の向かいへ腰を下ろした。
「……心配した。」
紗世は瞬きをした。
「え?」
「お前が鷹丸様を見捨てられず、向こうに残ると言い出したらどうするかと思った。」
「えぇ!?」
思わず声が裏返る。
「そんなことしないよ!」
「理屈では分かっている。」
惟成は静かに続けた。
「だが、お前は情に流される。」
「う……。」
反論できない。
「夢の中でのお前は、鷹丸様を傷付けたくなくて苦しそうだった。」
紗世は俯いた。
確かに苦しかった。
恩人であり、自分を大切に想ってくれた人だったから。
「……ごめん。」
「謝るな。」
惟成は首を振る。
「優しいのはお前の良いところだ。」
紗世は顔を上げた。
「ただな。」
惟成の目が少し細くなる。
「夢の中で、お前が鷹丸様に抱き締められていたのは、あまり面白くなかった。」
「なっ……!」
一気に顔が熱くなる。
「そ、それは向こうが勝手に……!」
「知っている。」
「だったら!」
「知っていても気に食わんものは気に食わん。」
即答だった。
紗世は口をぱくぱくさせる。
そんな様子を見ながら、惟成はふっと笑った。
「本当に懲りない姫だ。」
「なによ。」
「いや。」
惟成はそっと手を伸ばし、紗世の頬にかかった髪を耳へ掛けた。
紗世の鼓動が跳ねる。
「な……何?」
「安心しただけだ。」
低く穏やかな声。
惟成はゆっくりと顔を寄せた。
「惟成……?」
名を呼んだ瞬間。
柔らかな口付けが落ちる。
触れるだけの短い口付け。
それなのに紗世の顔はみるみる赤くなった。
唇が離れる。
惟成は少しだけ紗世を見つめた。
「これで安心した。」
「ず、ずるい……。」
「何がだ。」
「急すぎる……。」
「先触れは出しただろう。」
「それは違う!」
紗世の抗議に、惟成は珍しく声を上げて笑った。
「もう!」
紗世は頬を膨らませる。
しかし、その時だった。
惟成の視線がふと紗世の首元に落ちた。
「そういえば。」
「なに?」
「石山寺で付けた印は、もう消えたのか?」
紗世は一瞬固まった。
「っ!」
反射的に首筋を両手で隠す。
「な、なんでそんなこと聞くの!?」
「消えたのかと思ってな。」
「消えるよ!普通は消えるの!」
「そうか。」
惟成は淡々と頷いた。
その様子に紗世は少し拍子抜けする。
「……何その反応。」
「いや。」
惟成は静かに答えた。
「少し残念だと思っただけだ。」
「残念じゃない!!」
即座に反論する。
「なんで残念なの!?」
「俺の印だったからな。」
「印って言わないで!」
紗世は真っ赤になった。
「父上に虫刺され扱いされたの忘れたの!?」
「面白かったな。」
「面白くない!」
惟成は肩を震わせる。
紗世はむうっと頬を膨らませた。
「大体、首なんて見える場所に付ける方がおかしいんだから!」
「見えなければ意味がないだろう。」
「意味って何!?」
「印だからな。」
「だからその発想がおかしいの!」
紗世が抗議している間に、惟成は自然と距離を詰めていた。
気付いた時には、もう目の前にいる。
「ちょっ……近い。」
「そうか?」
「そうだよ。」
紗世はじりっと後ろへ下がろうとした。
だが惟成の手が先に伸びる。
そっと顎を持ち上げられた。
「惟成?」
「安心しろ。」
「何が?」
「今度は見えにくい所にする。」
「え?」
意味を理解した瞬間だった。
「ちょっ──」
言葉が最後まで続かない。
惟成の唇が首筋へ落ちた。
「っ……!」
紗世の肩が大きく震える。
首筋から背筋へ熱が走った。
「こ、惟成!」
慌てて押し返そうとするが、惟成はすぐには離れない。
しばらくしてようやく顔を上げた。
「うん。」
満足そうな声。
「これならしばらく消えんだろう。」
紗世は真っ赤になりながら首筋を押さえた。
「ばか!!」
「何故だ。」
「何故じゃない!!」
「見えにくい所にしたぞ。」
「そういう問題じゃないの!」
惟成は平然としている。
紗世は首筋を押さえたまま涙目になった。
「もう会わない!」
「また来る。」
「来なくていい!」
「そうか。」
全く堪えていない返事だった。
その様子に紗世はますます頬を膨らませる。
惟成はそんな紗世を見ながら、どこか機嫌良さそうに目を細めた。




