第210話 別れの夢
「嫌だと言っておろう!」
鷹丸の声が荒くなる。
「離さぬ!そなたは私のものだ!!」
「違います!私は――」
その時だった。
「違う。」
低い声が落ちた。
「我のものだ。」
紗世と鷹丸の間に一本の腕が伸びる。
ぼろぼろの衣。
乱れた黒髪。
鬼面を付けた異形の男。
(惟成……!)
紗世の顔に安堵が広がった。
「鬼か!」
鷹丸は咄嗟に後退り、太刀へ手を掛ける。
鬼も静かに太刀を構えた。
「鬼め!三条を正気に戻せ!!」
「何を言う。」
鬼は静かに太刀を下ろした。
「我が妻は、元より正気だ。」
鷹丸は唇を噛み締める。
「そのような事があるものか!」
声を荒げた。
「鬼の妻など厭われるだけだ!私なら……私なら三条が望むものを与えてやれる!」
拳を握る。
「美しい袿も、唐衣も、優雅な暮らしも、地位も名誉も――三条を幸せにできる!!」
鬼は静かに答えた。
「確かに、鬼より裕福な暮らしはできるだろうな。」
その時。
紗世は鬼の傍らへ寄り添った。
「こ……あなた……」
(惟成の名前は出しちゃやばいよね。)
鬼を見上げる。
「私は、あなたがいれば何も要りません。」
鷹丸は愕然とした。
「三条……」
紗世はゆっくりと鷹丸へ向き直った。
「鷹丸様。」
「……何だ。」
「なぜ、このような夢を見ていると思いますか?」
突然の問いだった。
鷹丸は戸惑う。
「そなたに会いたいという想いが、この夢を見せているのだろう。」
「それでしたら。」
紗世は優しく微笑んだ。
「私と想いが通じ合う夢になっても良いはずです。」
鷹丸は言葉を失った。
「鷹丸様は、本当は心のどこかで私を諦めたいと思っているのではありませんか?」
「そんなことは……!」
「夢の中の私は、ずっと鷹丸様を拒んでいます。」
静かな声だった。
「それは鷹丸様自身が、自分を諦めさせるために見ている夢なのではありませんか?」
鷹丸は呆然とした。
「鷹丸様。」
紗世は続ける。
「最近、お仕事はちゃんとできていますか?」
鷹丸は目を伏せた。
「……上の空だったかもしれぬ。」
「鷹丸様は真面目な方です。」
紗世は穏やかに言った。
「中務卿宮様のために尽くしておられる方ですもの。」
鷹丸は何も言わない。
「だから心の奥では、このままでは駄目だと思っていたはずです。」
静かな沈黙。
「私は、そなたを諦めたいのか……?」
掠れた声だった。
「私は鷹丸様の夢の中の三条です。」
紗世は微笑む。
「ですから、少しくらいは分かるつもりです。」
鷹丸はその場に座り込んだ。
「……諦めきれぬ……」
弱々しい声だった。
「本当に望んで、鬼の妻となったのか?」
「はい。」
「証拠はあるか?」
「え?」
「証拠だ。」
紗世が戸惑っていると、
「ある。」
鬼が淡々と答えた。
「男女の契りは既に交わしている。」
「――っ!!」
紗世の顔が一気に真っ赤になる。
しかし男達は平然としていた。
「そうか。」
鷹丸は淡々と聞く。
「何度契った?」
「何度も。数えておらん。」
「契った証は?」
「妻の首に印を付けている。」
鬼は平然と続ける。
「見るか?」
紗世は慌てて首筋を押さえた。
鷹丸はその様子を見て、大きく息を吐く。
「……見ずとも分かる。」
そして苦笑した。
「本当なのだな。」
しばらく沈黙が続いた。
やがて鷹丸は立ち上がる。
「三条を好きでいることくらいは、許せ。」
「え……?」
「会いたいとも、触れたいとも、もう言わぬ。」
少し寂しそうに笑った。
「だが、好きでいることくらいは良いだろう?」
「良いだろう。」
鬼が答える。
鷹丸が眉をひそめた。
「……なぜお前が答える。」
「夫だからな。」
「ふん。」
鷹丸は鼻を鳴らした。
そして紗世を見る。
「三条。」
「はい。」
「もし鬼との暮らしに嫌気が差したら、いつでも来い。」
紗世は思わず笑った。
「ありがとうございます。」
「夜もしつこそうだ。三条が私の元へ来るのも早いかもな。」
更に顔を赤らめ困惑する紗世を見て、鷹丸も小さく笑う。
「自分の執着を断つために、こんな夢を見続ける、こんな良い男などそうそうおらぬからな。」
「ふふっ……確かに。」
松林に、ようやく穏やかな笑い声が響いた。
鷹丸も、つられるように小さく笑った。
だが、その笑みはどこか寂しげだった。
「まったく……」
空を見上げる。
いつの間にか、松林の向こうの景色が薄く霞み始めていた。
風が吹く。
ざわり、と松の梢が揺れた。
「そろそろ、終わりのようだな。」
「鷹丸様……」
紗世は一歩近付いた。
「今まで、本当にありがとうございました。」
鷹丸は目を細める。
「礼を言われるようなことはしておらぬ。」
「そんなことありません。宇治で倒れた人たちを助ける時も、ずっと支えてくださいました。」
「……あれは、私が好きでやったことだ。」
「それでもです。」
紗世は頭を下げた。
「私は、鷹丸様に出会えて良かったと思っています。」
鷹丸はしばらく黙っていた。
やがて、諦めたように息を吐く。
「そういうところだ。」
「え?」
「そういうところが、好きだった。」
紗世は困ったように眉を下げた。
鷹丸は苦笑する。
「その顔をするな。」
そして、ゆっくりと紗世へ手を伸ばした。
紗世の肩が僅かに強張る。
しかし、その手は触れる寸前で止まった。
「もう触れぬ。」
鷹丸は静かに手を下ろした。
「約束だからな。」
紗世は小さく頷いた。
「はい。」
「鬼。」
鷹丸が惟成を見る。
「なんだ。」
「三条を泣かせるな。」
「言われるまでもない。」
「そうか。」
鷹丸は鼻で笑った。
「気に食わん男だ。」
「お互い様だ。」
二人のやり取りに、紗世は思わず吹き出した。
「ふふっ。」
その瞬間。
世界が大きく揺れた。
松林が霧に溶けるように崩れていく。
在昌の張った術が働き始めたのだろう。
紗世と惟成の小指に結ばれた赤い組紐が、淡い光を帯びていた。
「時間だな。」
鷹丸が呟く。
紗世は最後にもう一度だけ頭を下げた。
「鷹丸様。」
「うむ。」
「どうか、お元気で。」
鷹丸は少し驚いた顔をした。
そして、穏やかに笑った。
「ああ。」
それは宇治で初めて会った頃のような、優しい笑みだった。
「そなたもな、三条。」
風が吹く。
景色が白く染まる。
鷹丸の姿が少しずつ遠ざかっていく。
「さらばだ。」
その言葉を最後に――
夢は崩れた。
───三条東洞院 陰陽頭邸
チリン。
鈴が一つ鳴った。
「戻る。」
在昌が静かに言った。
紗世の指先がぴくりと動く。
惟成は先に起きており、紗世を覗き込んでいた。
そして――
「ん……」
紗世がゆっくりと目を開いた。
「紗世。」
惟成の声。
紗世はぼんやりと天井を見つめる。
「……帰ってきた。」
「これ以上、時間をかけるのは危険だったからね。強制的に呼び戻させてもらったが……どうだった?」
在昌が尋ねる。
紗世はしばらく黙っていた。
そして、小さく笑った。
「たぶん……大丈夫です。」
「たぶん?」
惟成が眉を寄せる。
「だって。」
紗世は起き上がりながら言った。
「最後に『鬼との生活が嫌になったら来い』って言われました。」
部屋が静まり返る。
在昌が吹き出した。
「はははっ!」
惟成は額を押さえた。
「……諦めたようで、諦めてないですね。」
「だが。」
在昌は笑みを収めた。
「魂の気配は落ち着いている。」
その言葉に、部屋の空気が少し和らぐ。
長かった一件も、ようやく終わりが見えた。
────中務卿宮邸
鷹丸は目を開けた。
三日月が弱い光を庭に落とし、虫の音が遠くに聞こえる。
「………夢?」
上半身をゆっくりと起こす。
「いや……夢では……ない、な。」
小さく息を吐く。
まだ日が昇るには時間がある。
しかし、今は妙に目が冴えていた。
鷹丸は寝所を抜け廊下へと出た。
三日月が淡く光る。目を瞑り、夢の中で再会した三条の姿を思い出す。
「そなたは、幸せなのだな…。」
三日月に目を細めながら、小さく呟いた。
「幸せならば、何も言うまい。」
声は小さい。しかし、固い意思を宿したような声だった。
「…………愛していた……いや、愛している。今も……。」
自身も気付かぬ内に、一筋の涙がこぼれていた。
その涙を拭いながら苦笑する。
「まさか私が、このようなことで涙を流すとはな……人生分からぬものだ……。」
呆れたように吐いた言葉は、淡い光が差す闇に溶けていった。




