表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
208/254

第208話 名を呼んで

───その夜 六条邸


夜も更け、六条邸の庭には涼しい風が渡っていた。


昼間の暑さが嘘のように和らぎ、虫の音だけが静かに響いている。


在昌は従者を下がらせ、一人で御息所の局へ向かった。


御簾の向こうには柔らかな灯火が揺れている。


「在昌様。」


静かな声が聞こえた。


その声だけで、自然と肩の力が抜ける。


「お待たせしました。」


「いいえ。」


御息所は穏やかに答えた。


「今日は少し遅かったのですね。」


「ああ。和泉殿と惟成殿に呼ばれていてね。」


御簾の向こうで気配が少し動く。


「紗世は落ち込んでおりませんでしたか?」


在昌は小さく笑った。


「前よりは、良くなっているよ。」


その答えに御息所も安堵したようだった。


「そうですか。」


少し間を置いて、


「生霊の件も進展がございましたか?」


と尋ねる。


「進展はあった。」


在昌は頷いた。


「だが、解決まではもう少しかかりそうだ。」


御息所は静かに息を吐く。


「紗世が苦しむのは見ていて辛いものです。」


「分かっている。」


在昌も真面目な声になる。


「何とかするつもりだ。」


「お願いします。」


しばらく虫の音だけが流れた。


やがて御息所が口を開く。


「それで。」


「うん?」


「今日は何を言われたのです?」


在昌は眉を上げた。


「なぜそう思うんだい。」


「なんとなく。」


即答だった。


「在昌様のお声が少し疲れております。」


在昌は苦笑する。


「鋭いね。」


「あなたの事ですもの。」


在昌はため息をついた。


「通いが何夜目か聞かれた。」


沈黙。


次の瞬間。


御簾の向こうから小さな笑い声が漏れた。


「まあ。」


「しかも惟成殿が真顔で。」


「真顔で。」


「後学のために、と。」


御息所は堪えきれず声を立てて笑った。


在昌は思わず額を押さえる。


「二人とも人をからかう楽しさを覚えてしまった。」


「紗世らしいわ。」


「惟成殿まで同調するとは思わなかった。」


御息所の笑いはしばらく続いた。


やがて落ち着くと、


「けれど。」


少しだけ柔らかな声になる。


「仲睦まじそうで安心いたしました。」


「そうだね。」


在昌も頷いた。


「色々なことに巻き込まれているが、あの二人は支え合っている。」


御息所は静かに微笑んだ。


「幸せになってほしいものです。」


「きっとなるさ。」


在昌はそう答えた。


再び静かな時間が流れる。


夜風が御簾を揺らした。


その時だった。


「在昌様。」


「うん?」


「ひとつ、お聞きしてもよろしいですか。」


「何かな。」


御息所は少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。


「いつまで、御息所様とお呼びになるのです?」


在昌は目を瞬いた。


「急だね。」


「急ではありません。」


どこか拗ねたような声音だった。


「私は在昌様とお呼びしておりますのに。」


在昌は少し考える。


そして気付いた。


「そういえば。」


「はい。」


「私は御息所様のお名前を存じませんね。」


御簾の向こうが静かになる。


しばらく返事はなかった。


やがて


「……私の名など、ご存じなくても困らないでしょう。」


「困る。」


即答だった。


今度は御息所が黙る番だった。


「困るのですか?」


「好きな人の名を知らないのは寂しい。」


夜風が吹き抜ける。


しばらくして、御息所が小さく息を吐いた。


綾子(りょうし)、と申します。」


在昌は繰り返す。


綾子(りょうし)殿。」


すると御簾の向こうから、


「硬いです。」


という不満げな声が返ってきた。


在昌は思わず笑った。


「では、どう呼べば?」


御息所は少し迷ったようだった。


そして静かに言う。


「本来は、りょうしと読みますが」


「うむ。」


声が柔らかくなる。


「在昌様には、柔らかい響きで、あやこと呼んでいただきたいのです。」


在昌は少しだけ目を細めた。


「それは、私だけの呼び名かな。」


「ええ。」


迷いのない返事だった。


「あなただけです。」


在昌の口元が自然と緩む。


そして優しく呼んだ。


綾子(あやこ)。」


御簾の向こうで息を呑む気配がした。


「……はい。」


かすかに震えた声。


それが妙に愛おしかった。


在昌はもう一度呼ぶ。


綾子(あやこ)。」


今度は少し早く返事が返る。


「はい。」


すると、するり、と御簾の端が持ち上げられた。


灯火に照らされた御息所の姿が見える。


穏やかな笑み。少しだけ紅く染まった頬。


綾子(あやこ)?」


在昌が呼ぶ。


御息所はそっと目を伏せた。


そして微笑む。


「お入りになって。」


夜風が二人の間を静かに通り抜けた。


室内には柔らかな灯がともり、ほのかな香が漂っていた。


御息所は少しだけ身を引き、在昌の座る場所を整える。


その仕草を見ながら、在昌はふと笑った。


「どうかなさいましたか?」


「いや。」


在昌は肩の力を抜いた。


「こうして御簾の内に招かれるようになるとは思わなかったな、と。」


綾子は少し首を傾げる。


「そうでしょうか。」


「そうだよ。」


在昌は即答した。


「初めて会った頃の綾子は、私の話など半分も信じていなかった。」


御息所の頬がわずかに赤くなる。


「……それは。」


「それは?」


「在昌様が、あまりにも軽々しく仰るからです。」


「何を?」


「見目も心も美しい、とか。」


「本当のことだ。」


「禁断の恋に落ちてしまいそうだ、とか。」


「本当だった。」


「こんな私を面白がってくれる方がいれば、恋愛も前向きになりたい、とか。」


「それも本当だった。」


在昌は平然としている。


綾子は思わず扇で顔を隠した。


「だから信じられなかったのです。」


「なぜ?」


「社交辞令かと思いました。」


在昌は目を丸くした。


「社交辞令でそんなことを言う男がいるかい?」


「おります。」


「いるかな。」


「おります。」


即答だった。


在昌は少し笑った。


「だとしても、私は違った。」


綾子の視線が揺れる。


「今なら分かっております。」


小さな声だった。


「……紗世にも随分と言われましたから。」


在昌は吹き出した。


「ああ。」


「『御息所様は陰陽頭様のことどう思ってるんですか』と何度聞かれたことか。」


「聞きそうだ。」


「『好きだという気持ちに身分も立場も関係ありません』とも。」


「それも言いそうだ。」


二人とも思わず笑う。


紗世の顔が浮かんだからだ。


「本当に不思議な姫です。」


御息所がぽつりと呟いた。


「高貴な姫君らしく振る舞おうという気が全くない。」


「ないね。」


「けれど。」


御息所は柔らかく微笑んだ。


「誰かのために泣いて。」


「ああ。」


「誰かのために怒って。」


「ああ。」


「誰かの幸せを本気で願っている。」


在昌は静かに頷いた。


「だから皆、あの姫に絆される。」


「惟成殿も。」


「惟成殿も。」


二人の声が重なった。


また笑いが漏れる。


しばらくして御息所が静かに言った。


「在昌様。」


「うん?」


「私、今が一番幸せかもしれません。」


在昌は黙って聞いていた。


「昔は。」


御息所はゆっくりと言葉を選ぶ。


「何かを失うことばかり恐れておりました。」


夜風が簾を揺らした。


「けれど今は。」


少しだけ微笑む。


「失うことより、得たものの方が多い気がするのです。」


在昌の表情が柔らかくなった。


「それは良かった。」


「紗世がいて。」


「うん。」


「邸の者達がいて。」


「うん。」


「そして。」


綾子は少しだけ目を伏せた。


「在昌様もいてくださる。」


静かな沈黙。


在昌はしばらく何も言わなかった。


そして


「綾子。」


その名を呼ぶ。


綾子の肩が小さく震えた。


「はい。」


「私は今、かなり嬉しい。」


綾子は少し困ったように笑う。


「そういうことを、すぐ仰る。」


「本当だからね。」


「また。」


「本当だから。」


在昌は穏やかに繰り返した。


綾子は観念したように小さく笑った。


そして今度は、自分からそっと在昌の袖を摘まむ。


「……在昌様。」


「うん?」


「もう少しだけ。」


「うん。」


「今夜は、こちらにいてください。」


在昌は微笑んだ。


「もちろん。」


外では虫の音が静かに響いていた。


六条の夜は、穏やかに更けていく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ