第206話 三条東洞院の邸
───数日後 陰陽寮へ続く渡殿
「陰陽頭様。」
背後から声が掛かった。
振り返ると、そこには惟成が立っていた。
「おや、惟成殿。」
在昌は目を細める。
「先日、和泉殿と石山寺参詣に泊まりで行ったんだって? 検非違使尉殿が荒れていたらしいじゃないか。」
少し意地の悪い笑みを浮かべる。
「検非違使尉様が荒れるのは、今に始まったことではありませんので。」
惟成は淡々と返した。
「それより、少しお話が。」
「ふむ。」
在昌は周囲を見回した。
「ここで話してもよい内容かな?」
「いえ。できれば場所を改めたいのですが。」
「和泉殿に関することかな?」
惟成は黙って頷いた。
「それなら、私も少し話したいことがある。」
在昌は扇を閉じた。
「二人とも、私の邸へ来られるかい?」
「陰陽頭様のお邸、ですか?」
「ああ。三条東洞院あたりだ。」
「承知しました。和泉殿と共に伺います。」
そうして日時を取り決めると、惟成は足早に去っていった。
その背中を見送りながら、在昌は小さく呟く。
「和泉殿の生霊が誰なのか……どうやら分かったようだね。」
───三条東洞院 陰陽頭邸
紗世は惟成に手を引かれながら牛車を降りた。
「ここが、陰陽頭様のお邸……。」
目の前には華美ではないが、どこか荘厳な雰囲気を纏う邸が建っていた。
風に乗って、護摩や儀式に使う香の匂いが微かに漂う。
「左兵衛尉・源惟成様。そして藤原検非違使尉様の姫君でございますね。」
すうっと、音もなく女房が現れた。
惟成の目がわずかに見開く。
(……気配がなかった!?)
女房は静かに頭を下げた。
「驚かせてしまいましたか?」
「……少しな。」
「申し訳ございません。」
女房は淡々と言う。
「私は安倍陰陽頭様の式神でございますので。」
「式神……?」
惟成が眉を寄せる。
その隣で、紗世の顔がぱっと明るくなった。
「式神!? お姉さん、式神なんですか!?」
女房は一瞬だけ目を丸くした。
「怖くないのですか?」
「全然!」
即答だった。
「すごい! 本当にいるんだ!」
その反応に、式神の女房はくすりと笑う。
「私を怖がらないどころか喜ばれるとは……。お可愛らしい姫君でございますね。」
「このお邸には、お姉さんみたいな式神がたくさんいるんですか?」
「いえ。日常的に動いているのは私くらいで──あら。」
女房がふと顔を上げた。
「主様が、そのような所で油を売っていないで、早くお二人を案内しろとの仰せですわ。」
「えっ!? 陰陽頭様、このやり取り見えてるんですか!?」
「ふふふ。それは主様にお聞きくださいませ。」
女房は優雅に一礼した。
「では、ご案内いたします。」
───陰陽頭・在昌の部屋
「足を運ばせてすまないね。」
在昌は二人を迎えた。
「いえ。相談したかったのはこちらですから。」
惟成が答える。
「四条邸や六条御息所邸では、どうしても人の目がある。」
在昌は真顔になった。
「今日の話は、なるべく当事者以外に聞かれたくないのでね。」
「私もそう思います。」
惟成が静かに頷く。
在昌は二人を見た。
「さて。」
そして本題を切り出した。
「二人とも、和泉殿に憑く生霊の正体が分かったのだろう?」
紗世と惟成は顔を見合わせる。
「……鷹丸様、だろう?」
在昌が先に言った。
「分かっていたのですか!?」
紗世が身を乗り出す。
「実は先日、主上に呼ばれてね。」
「主上!?」
紗世の目が丸くなる。
(主上って……朱雀帝だよね!?)
妙なところで感心してしまう。
「主上は何と?」
惟成が冷静に尋ねた。
「最近、中務卿宮様の様子がおかしい、と。」
「中務卿宮様が?」
紗世は首を傾げた。
在昌は頷く。
「そこで主上が中務卿宮様にお尋ねになったところ、側近の鷹丸様の様子がおかしく、それが宮にも影響しているらしいとのことでね。」
紗世は納得したように頷いた。
在昌は胸中で小さく息を吐く。
(和泉殿も惟成殿も、鷹丸様が中務卿宮その人だとは知らぬ。今は明かさぬ方がよいだろう。)
「そこで主上と宮の頼みで、久しぶりに鷹丸様に会ったのだよ。」
「……鷹丸様は、お元気でしたか……?」
紗世が不安そうに尋ねる。
在昌は少し考えた。
「元気とは言い難いかな。かなり覇気を失っていた。」
紗世は俯く。
宇治で見た、明るく快活な鷹丸の姿が脳裏をよぎった。
「診てみると、魂が肉体から離れやすい状態になっていた。」
「魂が……?」
惟成が眉を寄せる。
「生霊を飛ばしている者に時折見られる状態だよ。」
在昌は続ける。
「生霊にも二種類ある。思念だけを飛ばす場合と、魂そのものが飛ぶ場合だ。
鷹丸様は後者だった。」
部屋が静まり返る。
「その時、私は思った。」
在昌は紗世を見た。
「和泉殿に生霊を飛ばしているのは、鷹丸様ではないかと。鷹丸様ならば、和泉殿──三条をよく知っているが、今は居場所を知らぬ、という夢を渡る生霊の条件に合うからね。」
紗世は静かに頷いた。
「石山寺で夢を見ました。」
小さな声だった。
「鷹丸様に、鬼の妻になるなと引き止められる夢です。」
そして夢の内容を語り始める。
話を聞き終えた在昌は静かに言った。
「鷹丸様からも、ほぼ同じ話を聞いた。」
紗世は顔を上げる。
「現実では三条に会えない。しかし夢なら会える。話もできる。抱き締めることもできる。」
惟成の肩がわずかに動いた。
「三条のいない現実に興味はない、ともね。」
在昌は目を閉じた。
「だが、それでは二人とも眠り続けることになる。」
在昌の声が厳しくなる。
「最悪の場合、命を落としかねない。」
「……。」
「そのことは鷹丸様にも伝えた。」
しばし沈黙が落ちる。
やがて惟成が口を開いた。
「鷹丸様は、何と?」
「分かってはいる。」
在昌は答えた。
「だが、三条への想いは自分でもどうしようもない、と。」
紗世はゆっくりと顔を上げた。
そして真っ直ぐ在昌を見た。
「……夢の中で、ちゃんと話し合うしかないですよね。」
その言葉に、在昌は静かに頷いた。




