第205話 タチの悪い虫
───四条邸
石山寺を発った牛車は、昼を過ぎる頃には京へ戻っていた。
一泊したことで出発は早めたものの、道中は牛の歩みに合わせたため、帰宅は予定より少し遅くなった。
四条邸の門が見えてきた時。
紗世はほっと息を吐いた。
「やっと着いたぁ。」
「そうだな。」
惟成も小さく頷く。
その時だった。
門前に立つ人影が見えた。
腕を組み、仁王立ちになっている。
見覚えがありすぎる姿。
「……。」
「……。」
紗世と惟成が同時に黙った。
真砂がそっと目を逸らす。
門前に立つ兼成の周囲だけ、妙に空気が重い。
「父上……?」
紗世が恐る恐る呟いた。
兼成は一歩前へ出た。
「紗世。」
静かな声だった。
静かすぎた。
紗世の背筋に冷たいものが走る。
「あ、あのね?」
「無事であったか。」
「え?」
兼成は紗世の顔を見た。
怪我はないか。
顔色は悪くないか。
疲れていないか。
確認するように見つめる。
そして。
大きく息を吐いた。
「……無事なら良い。」
紗世は少しだけ肩の力を抜いた。
しかし、次の瞬間。
「良いわけがあるかぁぁぁぁぁぁ!!」
四条邸中に響き渡る怒号。
牛まで驚いて首を振った。
「日帰りのはずが一泊とはどういうことだ!!」
「だ、だって雨が!」
「だからと言って文の一本も寄越さぬか!!」
「宿坊に着いた頃には夕方だったし!」
「使いを出せば良いだろうが!!」
「ご、ごもっともです……。」
紗世は縮こまった。
兼成はさらに惟成へ向き直る。
「惟成!」
「は。」
「お前は何をしていた!」
「雨を降らせたわけではありません。」
「そういう話ではない!」
即答だった。
真砂が吹き出しそうになるのを必死に堪えている。
「逢坂関の道が危険であったため宿を取りました。」
「それは分かっておる!」
「では問題ありません。」
「問題だらけだ!」
兼成の額に青筋が浮く。
惟成は微動だにしない。
「昨日は都中に使いを出した!」
「そこまで!?」
紗世が叫んだ。
「そこまでだ!」
兼成も叫ぶ。
「石山寺まで迎えに行くべきかと半刻ほど悩んだ!」
「行こうとしてたの!?」
「当然だ!」
当然ではない。
真砂も従者達もそう思った。
しかし誰も口には出さない。
兼成は腕を組んだ。
「そもそも供人が少ないと言ったではないか。」
「またそこに戻るの!?」
「結果的に一泊になった!」
「雨のせいでしょ!?」
「供人が多ければもっと早く宿が見つかったかもしれん!」
「絶対関係ない!」
紗世が反論する。
惟成は横で静かに目を閉じた。
(終わらんな。)
その時だった。
「惟成ぃ!!」
再び兼成が惟成へ向き直る。
「まだ何か?」
「何かではない!!」
兼成はびしりと惟成を指差した。
「お主は姫を護るのが役目であろう!!」
「……ええ。」
「ならばっ……!」
兼成は紗世の襟元をぐいっと引き寄せた。
「虫一匹からすら姫を護れぬとは、どういうことだあああああ!!!」
兼成の指が、紗世の首筋に残る薄紅の痕を指し示す。
惟成は一瞬だけ面食らった顔をした。
「見ろ!!姫の滑らかな白肌に虫刺されの痕がっ……可哀想に!!」
(虫……。)
「申し訳ありません。」
惟成は無表情のまま頭を下げた。
「ああっ!なんということだ!!」
兼成はさらに嘆く。
「こちら側も刺されておるではないか!!なんとタチの悪い虫なのだ!!」
(タチの悪い虫……。)
紗世は思わず惟成を見た。
(まさか……気付いて……。)
「姫よ!痛くないか!?痒くないか!?薬草を塗ろうか!?」
(気付いてない。本気で虫刺されだと思ってる……。)
「い、痛くないし痒くもない!大丈夫だってば!!」
紗世は慌てて首を振る。
「もし痕が残ったらどうするんだ、惟成いいいいい!!!」
(痕を残したんだがな……。言ったら殺されるから黙っておこう。)
惟成は心の中だけで呟いた。
「では私が薬草を用意して参りましょう。」
「要らぬわ!私が用意する!!」
「だから大丈夫だってば!すぐ消えるから!!」
「……ぬぅっ。」
紗世に強く拒否され、兼成はたじろいだ。
やがて気を取り直したように咳払いをする。
「宿では、ちゃんと別室であったろうな?」
鋭い視線が惟成へ向けられた。
「寺の宿坊ですから。」
「……真砂。」
「はい。」
「姫と惟成は別室だったか?」
「はい。姫様は私と同室で、惟成様と従者達は別でございました。」
「……何も無かったな?」
真砂は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……ええ。」
その時だった。
「しかし。」
惟成の従者の一人が、何の気なしに口を開いた。
「昨夜は姫君がだいぶうなされていたようで、真砂殿が惟成様を呼びに来られましたな。」
紗世と真砂の顔色が変わる。
(あっ。)
(しまった……。)
惟成だけが無表情だった。
「惟成を?」
兼成の眉がぴくりと動く。
「はい。その後、しばらく本堂の方に灯りが見えておりました。」
「本堂……?」
兼成の声が低くなる。
「ええ。惟成様も戻られたのはかなり後でしたな。」
「かなり後……?」
兼成の肩がぷるぷる震え始めた。
(ヤバい。)
(ヤバいですね。)
(これはヤバいな。)
紗世、真砂、惟成が同時に察した。
「検非違使尉様。」
惟成が口を開く。
「姫が悪夢にうなされていたため、話を聞いて落ち着かせていただ」
しかし。
「本堂で何をしておったんじゃああああああああ!!!!」
説明は最後まで聞いてもらえなかった。
「だから話を聞いて──」
「そんなことは聞いておらん!!!」
(理不尽だな。)
惟成は内心でため息を吐いた。
兼成は頭を抱える。
「ひっ……姫と……寺の暗い本堂で……。」
そして何かを思い付いたように顔を上げた。
「真砂!!」
「は、はい!」
「本堂へは真砂も一緒だったのか!?」
真砂は非常に気まずそうな顔になった。
「……いえ。惟成様にお任せいたしました。」
「任せた……?」
兼成の額に青筋が浮かぶ。
「ということは……。」
ゆっくりと惟成と紗世を見る。
「薄暗い本堂で二人きりで何をしておったあああああああ!!!!」
「何もしてないってば!!!」
紗世が真っ赤になって叫ぶ。
「ならば何故そんなに真っ赤なのだ!?」
「父上が変なこと考えてるからでしょ!!」
「変なこととは何だ!!若い男女が人気のない場所へ行けば何をするかなど決まっ──」
「わあああああああああ!!!」
紗世が全力で叫んだ。
「だから何もしてないいいいいい!!!」
「信じられるかあああああ!!!」
完全に堂々巡りだった。
惟成はそっと空を見上げる。
(……まあ、兼成殿の想像ほどではないが。)
そして静かに目を閉じた。
(説明すると、もっと怒るだろうな。)




