第204話 朱雀帝
「………さて。」
惟成は静かに息を吐いた。
「こうしていても、まだ夜は長い。紗世、眠れそうか?」
紗世は少し考え、それから眉を下げた。
「眠りたいけど……また夢を見るんじゃないかって、不安。」
「だろうな。」
惟成は素直に頷いた。
「しかし……仮説だが。」
少し間を置く。
「夢の中で鷹丸様に手を掴まれたり、捕らえられている間は目が覚めず、接触が解かれることで目覚められるのではないかと思っている。」
紗世がぱっと顔を上げた。
「そう言えば!」
声が弾む。
「鷹丸様も夢の中で言ってた!『手を離したら、そなたは消えてしまう』って!」
「そうか……。」
惟成は考え込むように目を伏せた。
「ならば万が一、再び鷹丸様が夢に現れたら、とにかく触れられぬようにしろ。」
「うん。」
「もし触れられたなら、どうすれば離してもらえるかを考えろ。焦るな。自然に接触が解かれる状況を作るんだ。」
紗世は困ったように笑った。
「夢の中で、そこまで冷静に考えられるかなぁ……。」
「難しいだろうな。」
惟成も苦笑する。
「だが、眠らぬわけにもいかん。」
そう言って紗世の目の下を軽くつついた。
「お前の顔には、もう健康被害が出ている。」
「うぅ……。」
紗世は両手で目元を押さえた。
惟成はそんな様子を見て、少しだけ表情を和らげる。
「今日は俺がいる。」
低く、しかし力強い声だった。
「お前がうなされれば、真砂が俺を呼ぶ。」
紗世はその言葉に安心したように頷いた。
「……うん。」
「では、部屋へ戻るか。」
「うん!」
二人は立ち上がり、静かな本堂を後にした。
───翌朝
あれから紗世は鷹丸の夢を見ることなく、ぐっすりと眠ることができた。
日の出とともに目を覚ました紗世は、宿坊を抜けて境内へ出る。
朝の空気はひんやりとして心地よい。
大きく息を吸い込む。
「うーーーーん、爽快!!」
腕を上げて伸びをする。
前世のラジオ体操を思い出しながら、体を捻ったり肩を回したりした。
その時。
「こら。」
低い声が降ってきた。
振り向くと、案の定という顔をした惟成が立っている。
「四条邸に住まう姫君とは思えん振る舞いだな。」
「あ、惟成。おはよー。」
「おはよう。」
惟成は呆れたように息を吐く。
だがその表情には安堵も滲んでいた。
「だが……問題なく眠れたようだな。」
「うん!」
紗世は満面の笑みを浮かべる。
「お陰様で!」
そう言って、さらに肩をぐるぐる回した。
「だから少しは控えろと言っている。」
「えーー?」
紗世は唇を尖らせた。
「だって涼しくて気持ち良いんだもん。」
構わず体を動かす。
惟成は小さくため息を吐くと、そのまま紗世へ歩み寄った。
そして。
首元へ指先をとん、と当てる。
「そんなに見せびらかしたいのか?」
耳元で低く囁いた。
紗世、停止。
昨夜。
本堂で付けられた薄紅色の印。
思い出した瞬間、顔が一気に熱くなった。
「だっ……!」
慌てて両手で首筋を隠す。
「誰のせいだと思ってるのよ!!」
真っ赤になって叫ぶ。
惟成は涼しい顔だった。
「着崩さなければ見えん。」
紗世はむぅっと頬を膨らませる。
惟成はそんな姿を見ながら口元を緩めた。
「早めに朝餉を摂るぞ。」
「はーい。」
「日帰りの予定が一泊になった。」
惟成は空を見上げながら続ける。
「検非違使尉様は、昨夜のうちから怒っているだろうな。」
紗世の顔が引きつった。
「……確かに。」
「今頃、都中に使いを出していなければ良いが。」
「やりそう……。」
二人の脳裏に、娘を心配して落ち着きを失う兼成の姿が浮かぶ。
しばし沈黙。
そして同時にため息を吐いた。
「……早く帰ろう。」
「うん。」
そうして二人は朝餉の待つ宿坊へ戻っていった。
───中務卿宮邸
平安貴族の朝は早い。
中務卿宮も皇族とはいえ、儀礼や政務、祭祀に関する会議などが朝から行われることも多い。そのため、普段は夜明けとともに起きることが珍しくなかった。
しかし最近の中務卿宮は、日に日に起床の刻が遅くなっていた。
「宮様!宮様!!」
御帳台の外から焦った声が響く。
「宮様、起きておいでですか!?宮様!」
中務卿宮──鷹丸は、ゆっくりと目を開けた。
「……なんだ。」
掠れた声だった。
「今朝は主上が祭祀についてご相談があると仰せではありませんか!お支度を!」
「……そうだったな。」
鷹丸はゆっくりと身を起こした。
(昨夜もまた……三条は消えてしまった……)
拳を握る。
夢の中では会える。
話すこともできる。
触れることもできる。
だが、目覚めれば全て失われる。
(……三条のいない現実に何の価値がある。)
目を閉じる。
(夢の中でしか三条に会えぬというのなら……私は目覚めたくない。)
深いため息を吐きながら、鷹丸は重い体を引きずるように参内の支度を始めた。
───
「中務卿宮、参内いたしました。」
鷹丸は御簾の前で頭を下げた。
「座るがよい。」
御簾の向こうから若々しい声が返る。
今上帝──朱雀帝である。
「祭祀の話の前に。」
朱雀帝は扇を開いた。
「宮。最近、そなたの側近から話を聞いた。」
鷹丸は顔を上げる。
「起床が日に日に遅くなっているとか。具合でも悪いのか?」
「いえ。そういうわけではございません。」
「しかしな。」
朱雀帝は少し声を和らげた。
「今日とて、側近が肝を冷やしたと申しておったぞ。」
「……。」
「公務に支障が出るようでは困る。」
鷹丸は答えなかった。
「言えぬか?」
しばし沈黙が落ちる。
やがて鷹丸は静かに口を開いた。
「主上は……叶わぬ恋をされたことはございますか。」
朱雀帝は思わず目を見開いた。
「叶わぬ恋?」
思いもよらぬ問いだった。
「なぜ叶わぬのだ。相手の身分が低すぎるのか?」
「相手の身分が低いだけならば、高位貴族の養女にするなど手立てもございましょう。」
「まあ、そうだな。」
朱雀帝は苦笑した。
「しかし、宮が叶わぬ恋とは……。」
鷹丸は目を伏せた。
「私には、心の底から望んだ姫がおりました。」
静かな声だった。
「地方の没落貴族の娘で、身寄りもなく、貧しい貴族邸に仕えて生きていた姫です。」
朱雀帝は黙って耳を傾ける。
「しかし、その姫は不遇を嘆くことなく、自らの知恵と知識をもって人を救いました。」
鷹丸の表情が僅かに和らぐ。
「穢れだと厭われる者にも分け隔てなく手を差し伸べる……まるで菩薩のような姫でした。」
「……もしや。」
朱雀帝が口を開く。
「以前、宇治の山寺で病人の看病をしていたという三条という女房か。」
「左様にございます。」
「その女房は確か……。」
朱雀帝は言葉を選んだ。
「鬼の……。」
「はい。」
鷹丸は苦く笑った。
「和泉国北部の松林の街道で、自ら鬼の妻になると言って消えました。」
「忘れられぬのか。」
「忘れられるわけがございません。」
即答だった。
「忘れたくもありません。」
鷹丸の拳が固く握られる。
「現実で三条の行方を追いました。」
朱雀帝は目を見開く。
「私自ら、松林の街道へ赴きました。三条と出会った和泉国の野にも行きました。地方貴族にも領民にも尋ねました。」
「宮が、そこまで……。」
「しかし誰一人として三条を知りませんでした。」
鷹丸は苦しげに目を閉じる。
「そのような女房は知らぬ、と。」
「……。」
「まるで三条という存在だけが、人々の記憶から消えてしまったかのようでした。」
「鬼の仕業……か。」
「分かりませぬ。」
鷹丸は首を振った。
「ですが、そうとしか思えませぬ。」
沈黙。
やがて鷹丸は小さく笑った。
「しかし、夢の中でなら会えるのです。」
「夢の中で?」
「はい。」
鷹丸の目に微かな光が宿る。
「話ができる。手を取ることもできる。」
そして呟く。
「抱き締めることも。」
朱雀帝は額を押さえた。
「なるほどな……。」
苦笑が漏れる。
「夢から覚めたくない気持ちも分からぬではない。」
鷹丸は何も言わない。
「だが宮。」
朱雀帝の声が帝のものへ戻る。
「そなたは中務卿宮だ。皇族であり、公務を担う身でもある。」
「……はい。」
「夢に執着し、公務に支障が出るのでは困るのだ。」
「心得ております。」
朱雀帝は小さく息を吐いた。
「あとで陰陽頭を呼ぼう。」
鷹丸が顔を上げる。
「もしかすると、これは宮を良く思わぬ者の仕業かもしれぬ。」
「……。」
「恋心を利用し、公務を疎かにさせ、失脚を狙う者がおらぬとも限らぬ。」
鷹丸は驚いたように目を見開いた。
「主上……。」
朱雀帝は苦笑した。
「宮。」
静かな声だった。
「確かに私は即位に際し、そなた達が担いだ兄上と争った。」
鷹丸は黙って聞いている。
「結果として兄上は出家された。」
朱雀帝は続けた。
「だが、そなたの有能さは知っている。」
そして真っ直ぐ告げる。
「そなたが宮中から去ることは、朝廷にとって大きな損失だ。」
鷹丸は深く頭を下げた。
「……恐れ入ります。」
「陰陽頭に診てもらえ。」
「承知いたしました。」
朱雀帝は頷いた。
「では話を戻そう。」
扇を閉じる。
「祭祀についてだ。」
「は。」
そうして二人は、本来の政務の話へと移っていった。




