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第203話 薄紅の印

静まり返った本堂。


雨上がりの夜気が流れ込み、月明かりが床を淡く照らしていた。


惟成は紗世を抱えたまま腰を下ろす。


しばらくしてから口を開いた。


「落ち着いたか。」


「……うん。」


紗世は小さく頷き、そのまま惟成の胸元へ顔を埋めた。


沈黙が落ちる。


やがて紗世がぽつりと呟いた。


「……生霊……鷹丸様だった。」


消え入りそうな声だった。


「みたいだな。」


「知ってたの!?」


思わず顔を上げる。


惟成は首を横に振った。


「いや。さっき、お前がうなされている時に鷹丸様と言っていたからな。」


「……そっか……。」


再び沈黙が落ちる。


虫の声だけが遠くに聞こえていた。


しばらくして、惟成が静かに口を開いた。


「鷹丸様には世話になったと言っていたが……それだけだったのか?」


抑揚のない、淡々とした声だった。


紗世は言葉に詰まる。


「……。」


「言いたくないか?」


小さく首を振った。


「私のこと、好きだって……。」


声が小さくなる。


「和泉国に帰したくないって言われてた。」


惟成は黙って聞いていた。


「それで?なんて答えた。」


「鷹丸様はきっと身分も高い方だろうし、三条は没落貴族の身寄りのない女房って設定だったから……釣り合いませんって。」


「鷹丸様は、それで納得したのか?」


「ううん。」


紗世は首を横に振る。


「それでも文や贈り物を届けるって。

いつか迎えに行くって……。」


惟成はゆっくりと天井を仰いだ。


そして小さく息を吐く。


「攫われた、妻になったなどと言わず、死んだことにすれば諦めもついたかもな。」


紗世は何も言えなかった。


「……。」


「今となっては、もう遅いが。」


惟成は視線を戻し、紗世を見る。


「夢の中で、何をしていた?」


紗世は頷いた。


「私は百鬼夜行の中の牛車に乗ってたの。


それを鷹丸様が見つけて。


鷹丸様に手を引かれて牛車を降りて……鬼から逃げるぞって。」


惟成は何も言わずに聞いている。


「それから、鬼の妻になどなるなって。

手を掴まれて……離してくれなくて。」


紗世は自分の手首を見た。


まだ薄く赤みが残っている。


「このままじゃ夢に閉じ込められちゃうって思って、必死にお願いしたんだけど……離してくれなくて。」


惟成は僅かに目を細めた。


(夢の中で鷹丸様に捕らえられていると、目を覚ませないのか……。)


「そしたら。」


紗世は続けた。


「鬼の格好をした惟成が現れたの。

鷹丸様に離せって言ってくれて。

惟成が鷹丸様の手を掴んだら、目が覚めた。」


「離せと、現実で俺が言っていたからな。」


「え?」


紗世は目を瞬く。


「なんで……?」


惟成は紗世の手首を取り、月明かりの下へかざした。


そこには薄く赤い手形が残っていた。


「これを見た。

それに、お前がうわ言で『離してください』と言っていたからな。

夢の中で腕を掴まれているのだと思った。」


そう言って、赤くなった手首を親指で優しくさする。


「だから、お前の手首を握って離せと言っていた。」


「そうだったんだ……。」


紗世は手首を見つめた。


惟成の手は温かかった。


「……帰ったら陰陽頭様のところへ行こう。」


惟成が言う。


「陰陽頭様は宇治の一件より前から鷹丸様をご存知のようだったしな。」


「……うん。」


紗世は頷いた。


それから、おそるおそる顔を上げる。


「ねぇ。」


「なんだ。」


「怒ってる?」


惟成が眉をひそめた。


「何故だ?」


「鷹丸様のこと……ちゃんと全部言ってなくて。」


惟成は少し黙った。


月明かりが横顔を照らす。


やがて静かに口を開いた。


「怒ってはいない。」


紗世は少しだけ安堵した。


だが次の言葉で固まる。


「だが。」


「……うん。」


「生霊になるほど想われていたとは聞いていなかった。」


紗世は思わず目を逸らした。


「私も……こんなことになるとは思ってなかったの。」


「だろうな。」


惟成は小さく息を吐く。


そして紗世の額を軽く指でつついた。


「お前は昔からそうだ。」


「え?」


「自分に向けられる好意に鈍い。」


紗世は思わずむっとした。


「そ、そんなこと……」


「ある。」


即答だった。


「……はぁ……。」


惟成は大きく息を吐くと、そのまま紗世の肩へ額を預けた。


「え……な、なに? 惟成。」


紗世が戸惑った声を上げる。


「本当に……嫌になる。」


低く漏れた声は、どこか疲れていた。


「え……えっ!?」


いつもの惟成らしからぬ振る舞いに、紗世は狼狽える。


「牛車も使わず出歩く。」


「う……。」


「顔を隠せと言っても隠さぬ。」


「それは……。」


「姫君らしい振る舞いなど皆無。」


「ちょっと!」


思わず抗議する。


だが惟成は構わず続けた。


「そんな姫君を好きになる物好きなど、そうそうおるまいと思っていた。」


「…………。」


「俺くらいしかおらんと。」


紗世は何とも言えない顔になった。


「なのに蓋を開けてみれば、生霊を飛ばされるほど想われている男がいた。」


再び深いため息。


「厄介極まりない。」


「こっ……惟成だって!」


惟成が少し顔を上げた。


「なんだ。」


「腕は立つし!」


「うむ。」


「かっこいいし!」


「そうか。」


「仕事はできるし!」


「そうだな。」


「出世も早いし!」


「否定はせん。」


「姫君や女房から文を貰いまくってるくせに!」


惟成の眉が僅かに上がった。


「……くせに?」


「……く、くせに……。」


そこで言葉が止まる。


紗世は真剣に考えた。


だが出てこない。


(あれ……?)


悪口を言おうとしたはずなのに。


(思いつかない……。)


惟成は黙って待っている。


紗世は困った顔のまま惟成を見上げた。


(惟成って……。)


不思議そうに首を傾げる。


(私のどこがいいんだろう……。)


「なんだ。」


「かっこよくてモテるくせに……。」


「うん。」


「女の趣味、どうなってんの?」


沈黙。


そして。


ぶはっ――!


惟成が吹き出した。


「それをお前が言うのか!?」


肩を震わせて笑う。


「だ、だって!」


紗世は頬を膨らませた。


「普通にそう思うし!」


「ははっ……。」


珍しく惟成が声を上げて笑っている。


やがて笑いを収めると、惟成は紗世の顎へ手を添えた。


そっと顔を上げさせる。


月明かりの下。


互いの顔が近付く。


「本当にな。」


惟成が呟く。


「こんな距離で顔を見ても恥ずかしがらん。」


「別に恥ずかし――」


言い終わる前だった。


唇が塞がれる。


「んっ……。」


紗世の体が強張る。


惟成の膝の上へ抱き上げられたまま、逃げ場はない。


唇が重なる。


離れる。


また重なる。


まるで確かめるような口付けだった。


「……んぅ……。」


熱を帯びた吐息が混ざる。


ようやく唇が離れた頃には、紗世の呼吸も乱れていた。


「……っは……。」


惟成が額を寄せる。


「お前が悪い。」


掠れた声だった。


「……私?」


潤んだ瞳で見上げる。


惟成はしばらく何も言わなかった。


やがて静かに口を開く。


「夢の中とはいえ。」


その声には僅かな苦さが混じっていた。


「お前の口から他の男の名を聞くのは、あまり良い気はせんな。」


紗世の胸が小さく痛む。


「惟成……。」


「肝が冷えた。」


ぽつりと続ける。


「このまま目を覚まさなかったらどうする、と。」


紗世は何も言えなかった。


惟成の腕が少し強くなる。


「お前に触れていいのは、俺だけだ。」


切なさを帯びた眼差し。


初めて見る、真っ直ぐな独占欲だった。


紗世は目を見開く。


そしてそっと両手を伸ばした。


惟成の頬を包む。


「うん。」


小さく頷く。


「私も――。」


紗世は微笑んだ。


「惟成にしか、触れてほしくない。」


そう言って、自分から口付ける。


惟成の瞳が揺れた。


次の瞬間。


――とさっ。


気付けば紗世は本堂の床へ押し倒されていた。


「紗世……。」


熱を帯びた声。


月明かりを映した瞳が揺れている。


「……え。」


紗世は瞬きを繰り返した。


「え……あ……えっと、惟成?」


惟成は答えない。


代わりに首筋へ唇を寄せる。


「……っ。」


びくりと肩が震えた。


「ね、ねえ!惟成ってば!」


慌てて呼ぶ。


「なんだ。」


返事はする。


だが今度は反対側の首筋へ口付けが落ちた。


「っ……!」


ぞくり、と背筋が震える。


「こ、ここ!」


「うん。」


「石山寺だし!」


「知ってる。」


「お寺の本堂だし!」


「それも知ってる。」


「~~~~っ!!」


紗世の顔が一気に赤くなった。


惟成はそんな様子を見て、ようやく少しだけ口元を緩めた。


そして、不意に惟成の体が離れた。


「……え?」


紗世は瞬きを繰り返す。


先ほどまでの熱を帯びた空気が、急に遠ざかったようだった。


惟成は何事もなかったかのように紗世を起こす。


そして呆れたように言った。


「最後までするわけなかろう?」


「…………。」


紗世は固まった。


顔が熱い。


恥ずかしい。


なんだか悔しい。


色々な感情が一気に押し寄せる。


そんな紗世をよそに、惟成は首筋へ指先を置いた。


とん、と軽く触れる。


「印を付けただけだ。」


「……印?」


紗世は首を傾げた。


首筋では自分から見えない。


何のことだか分からない。


困惑していると、惟成がふいに紗世の腕を取った。


「こっちの方が分かりやすいか。」


「え?」


白く細い腕を持ち上げる。


そして――。


そっと唇を落とした。


「………っ。」


紗世の肩が小さく震える。


惟成はその反応を眺めるように目を細めた。


ゆっくりと唇を離す。


そこには薄紅色の痕が残っていた。


「こういうことだ。」


紗世は目を見開く。


次の瞬間、慌てて両手で首筋を押さえた。


「もうっ!」


真っ赤な顔で惟成を睨む。


「ばか!なんて所に痕を残すのよ!!」


惟成は平然としていた。


「暑いからと言って着崩さなければ見えん。」


「そういう問題じゃなくて!」


「問題だ。」


即答だった。


紗世は言葉に詰まる。


惟成はそんな紗世を見て、僅かに口元を緩めた。


「……ちゃんと着ておけ。」


低い声だった。


叱るようでいて、どこか甘い。


紗世は首筋を押さえたまま顔を背ける。


耳まで真っ赤になっていた。


惟成はそんな様子を見ながら、満足そうに小さく息を吐いた。

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